染め織りから遙かに飛翔する一言の彩
美への優れた感性と、その美に向き合う強い意志を持つ日本女性の文章は、しなやかで奥が深く、一言(いちごん)の持つ意味も重く多様で、読む方にも相応なエネルギーを求めてくる。幸田文、白洲正子、須賀敦子の名エッセイは、弛(たる)んだ心地で読み向かうと、目の前を文章が流れて行くのを追うだけで、なにも心に留まらない。それが数回続いて初めて、読む自分の弛みに気がつく。
こうした効果は、一言を生み出す母体が、いのちを削っているからに違いなく、いのちに直接関わる女性であることと、文章のしなやかさ重さは、密接な関係があると思われる。
生涯を布の染め織りに捧(ささ)げた志村ふくみさんが書き下ろした本書も、上記の名エッセイの系列に連なる深さと鋭さがある。
作者は、染め織りの第一人者として名を成した方である。本書のタイトルどおりに、後の世に伝え残す染め織りの極意の数々が名文で記されているのも美しいが、作者の専門分野から遙(はる)かに高く飛翔(ひしょう)し、色や光や生命すべてへの、日本人ならではの美意識と洞察力にみちたエッセイ集になっている凄(すご)さ。
染め織りという伝統工芸を入り口にして、哲学、宗教へと通じる万物の理(ことわり)の書でもある。
いやそれだけではない。一枚の布に色やデザインを与えるのだから絵画的であるのは当然にしても、音楽にまで及ぶ感性には瞠目(どうもく)させられる。
天然自然の植物から取り出される色について書かれている中に、「鼠(ねずみ)―無の色」の項がある。「鼠色ほど己(おの)れを無にして他の色を生かす色は他にない」と書き出され、その理由が、すべての植物は樹液や夾雑物(きょうざつぶつ)を含んでいてそれがうっすらと鼠色の影を宿している、そのためにどんな色をとなりに置いても調和するのだとつづく。
何となく納得させられるが、樹液や夾雑物の意味はいまひとつ不確か。けれど草木や花の色は、そのままでは染料にならず、どれだけ新鮮な緑葉や赤い花であっても、汁で染めれば鼠色にしかならないのだとか。これこそ生命あるものの神秘であり、だからこそ鼠色の控えめな豊かさが、他の色を生かすのだと説明されたとき、色は色を越えた人格をもって迫ってくる。そして最後に一行、ぽつんと音が置かれるのだ。
「音階でいえば半音階である」 鼠色は半音階。明瞭な音の区分けの間に在ってどちらにも付かず、けれどどちらの音をも立てながら、全音階では表現しきれない豊かな曖昧さを、謙虚に奏でるのが鼠色。
これは鼠色への説明を遙かに越えて、自然界における人間の、在るべき姿を、まさに半音階的に照射している。色であると同時に音楽であり哲学でもあるのだ。
自然界の素材から、様々な思考を紡ぎ出すのは、日本人がほとんど意識しないまま身につけてきた知恵であり、娯楽であり、自然が相手だけに割り切ることが出来ない、懊悩(おうのう)や苦しみでもある。
自然の素材を駆使して、カタチあるものを紡ぎ出すとき、人間を含むあらゆる存在の、不確実性や神秘、謎にぶち当たる。
作者はゲーテやシュタイナーの色彩論に解を求め魅せられるが、西洋の論ではしっくりこない日本的色彩の芳醇(ほうじゅん)さに、やがて目覚めていく。
染め織りが、実は言語であったのだと発見させてくれる、色鮮やかな一冊。