映像の世界、ファッションの世界、スポーツの世界で、性表現のみならず肉体の存在それじたいが一気に浮上してきた。人体の生理学的分析は、医療の世界のみならずボディ・ポリティックスの次元でも身体をますます透視していった。ある種の表現者たちは薬物を服用しながら、知覚の媒体としての身体を変容させることで、意識のバリアを超えてさらに深く世界にかかわろうとした。からだで音楽を聴く経験、あるいはダンスや舞踏、アクション・ペインティングなど身体表現そのものを媒介としたアートが進化した。そして世界戦争という、身体にくわえられた無差別的暴力……。そして現在は、「健康なからだ」「気持ちいいからだ」といった強迫的イメージが、社会の表層を覆っているようにみえる。
一九六〇年代の後半という時期、これら身体の局地戦はたがいに刺激しあいつつ、ある大きなムーヴメントを描きだしつつあった、あらゆる表現分野で「革命」が起こりつつあった。それまでまるでいかがわしいものについて語るかのように語られてきた身体が、思想の主題として一気に浮上してきたのである。そのきっかけのひとつとなったのが、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』だった。邦訳(ただし上巻のみ)が出版されたのは六七年、原著は第二次世界大戦の終結した年、一九四五年の刊行である。
身体がまぎれもない物体のひとつであるという、自明ともいえる前提をぐらぐら揺さぶったこの書物を、以後、文字で、あるいは形象で、あるいは身体そのもので表現される多くの身体論がその出撃地としたのだった。運動としての身体、記憶としての身体、あるいは表現としての、習慣としての、幻影としての、シンボルとしての、空間としての身体、そして無記名の実存としての身体……。これらの身体概念は、知らぬまにわたしたちの視線に深くとりついていた、身体を単一の物体(つまり単体の実体)とみなす思考法がどれほど虚構的なものであるかを、とことんあばきだした。
序文はつぎのような言葉で結ばれている。
現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦であるおなじ種類の注意と驚異をもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれ出ずる状態において捉えようとするおなじ意志によって、こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである。
まさにこの言葉を地でゆく身体論を、ひとはここに発見した。
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