解説

『殺意―松本清張短編全集〈04〉』(光文社)

  • 2017/08/12
殺意―松本清張短編全集〈04〉 / 松本 清張
殺意―松本清張短編全集〈04〉
  • 著者:松本 清張
  • 出版社:光文社
  • 装丁:文庫(309ページ)
  • 発売日:2008-12-09
  • ISBN-10:4334745202
  • ISBN-13:978-4334745202
内容紹介:
役員昇格を目前に控えた営業部長が、謎の服毒死を遂げた。青酸加里は、狭心症の見本薬に、どういう方法で仕込まれたのか。社内の親友が容疑者として浮かぶが、動機がわからない。日常生活の中に生まれる犯罪を描いて、探偵小説を推理小説に変えた「殺意」のほか、トラベル・ミステリーの先駆けとなった「白い闇」など、傑作八編。
松本清張作品に関心を持ち、長編、短編の別なく古書店で目につけば買ってきて読むようになったのは、ずいぶん後になってからである。そのきっかけになったのは映画『砂の器』であった。監督も加藤剛が演じた主人公も素晴らしかったが、僕は原作者が差別される側の人間の哀しみや憤りを知っているに違いないと感じた。彼の出世作で芥川賞を受けた「或る『小倉日記』伝」(一九五二年)を読んでから長い年月が流れていた。

それからしばらくたった、一九八一年の十一月、西武百貨店の八階にあった美術館で宮本百合子の没後三十年展をやることになって、僕は共産党の友人、当時副委員長だった(と思うが)上田耕一郎に頼んで松本清張に委員長になってもらった。そのオープニングの日、僕ははじめて宮本顕治と並んで立っている彼に会った。宮本委員長とは三十年ぶりの再会であったが、松本清張とはそれまで遠くからパーティなどで見掛けたことがあったくらいだから初対面と言ってよかった。

「今度はいろいろ御世話になりました」

と頭を下げた僕に向かって、彼は厚い唇を動かして、

「この展覧会は君にとって憧憬(あこがれ)だったんだ」

と頷いて見せ、僕は正直に、

「そうなんです、有難うございました」

と素直に答えたのを覚えている。はじめにそのような出会い方をしたせいか僕は松本清張に、不遇な人、差別される側の辛さを知っているその点は本質的に宮本百合子と同じ感性の人、暖かい人という印象を持っている。

この彼の人柄と作品に対して、いわゆる文学の世界の人たちはどんな見方をしていたのだろう。

僕と親しかった三島由紀夫が、はっきり嫌った作家が二人いるのだ。ひとりは太宰治であり、ひとりは困ったことに松本清張なのである。太宰治に対しては、本人もいる幾人かの席で、文壇の先輩にもなる彼に向かって、

「僕はあなたの文学を認めません」

と言い切って座が白けたという話が伝わっている。一方、ある出版社が現代文学全集を編んだ時、松本清張の作品を入れるなら自分は辞退すると主張してその出版社を困惑させ、同じく編集委員だった谷崎潤一郎の、独立した一巻ではなく誰かと二人で一冊のなかに入ってもらってはという案にも賛成しなかったという話も、その頃文壇外の人間であった僕でも知っているくらい有名である。

しかし僕は、このことは太宰治と松本清張と三島由紀夫の三人の文学の在り方を報(しら)せる上で奥行きの深いエピソードだと思うのだ。どちらが偉いとか、後世に残るとかいうことではない。

強(し)いて図式化すれば、私小説的な特色を引く太宰治と、プロレタリア文学の伝統を継ぐ松本清張、世界文学の中での後期浪漫派と自らを位置付けたりもしている三島由紀夫の、互いに譲れない文学観の対立のように僕は思う。

松本文学のもうひとつの特徴としては、その大衆性の質の問題がある。

彼の作品は物語の筋の展開の面白さを狙った推理小説と少し違うのだ。次つぎに謎を解く名探偵はまず登場しない。彼の作品が置かれている舞台はいずれもしっかりした社会的構造の上に乗っている。その上、作品の中の主要な人物がそれぞれ特徴的な性格や、物を喰べる時の噛み方や汗の匂いや眼配り動作の形を持っているのである。だから読む側は作品が持っている虚構そのものを、いつの間にか現実と思い込んでしまう。発生した事件が現実にあったものに似ているので錯覚を起こすのではない。描写の力、文章の説得力が読者に、それを現実と思い込ませるのである。

よく、わが国の推理小説は松本清張が出現してから変わったといわれる。変わらざるを得なくなったと言ってもいいかもしれない。確かに個性的な作家だけが存在を許されるような時代が来たと言い換えることができるだろう。その結果、そこには幻想的な空間の設定に特徴を持っている作家、時代認識のズレが逆らいようもなく主人公を犯罪へと追い立てていくような、文学的なストーリーに魅力を持っている作家、アリバイ構成の緻密さとそれ故の崩しの楽しさが素晴らしい作家と、いくつもの個性が轡(くつわ)を並べるような状態が出現した。それと同時に、何も表にそれが出てくる必要はないが犯罪や事件の歴史的、時代的背景がしっかり捕らえられていない作品は読者から軽く見られてしまうような状態も出現した。

僕は時々こうした有様を横光利一が見たら何と言うだろう、などと此頃空想を楽しんでいる。というのは、松本清張より十一年ほど早く生まれた横光利一は〝新感覚派〟の先頭に立つ一方で、

「これからの文学に可能性があるとすれば、それは純文学にして通俗文学でなければならない」

という意味の主張を一九三五年に「純粋小説論」として発表しているのだから。年齢の差よりはるかに横光利一が先輩作家のような印象があるのは、横光利一が二十代後半で『日輪』『蠅』などを書いたのに比して松本清張は四十一歳の時「西郷札」で世に出たのだから、作家としては二十五年以上の年齢差があることになるからである。

この点も、四十代に入ってから小説を発表するようになった僕にとっても、もうひとつ親近感を抱く理由なのだが、横光が「純粋小説論」を発表した際、小説という文学の形式が俳句や短歌といった伝統短詩型のような〝大衆性〟を持ち得ていないという認識があったのではないかと僕は思っている。こう考えてくると、同じ大衆性という言葉のなかにも、エンターテイメントとしての話の筋の運びや発想の意外に見えて本質は平易であることを意味する大衆性と、伝統的であることによって深く浸透している感性としての大衆性があることが見えてくる。しかしこの他にも、僕は大衆的な〝正義感〟のようなものに訴える大衆性があるのではないかという気がしている。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」などの番組がいつまで経っても人気番組と言われ、いくつかの推理番組が、平均していい視聴率を保っていられる原因のひとつはこの大衆的〝正義感〟の故なのではないかと僕は思う。

最初の長編小説『点と線』は一九五四年に起きた造船疑獄が下敷になっていると言われるが、当時の東京駅十三番ホームから十五番ホームを見ることができる「四分間の目撃者」の発見に象徴される執拗なアリバイ崩しの着想などが、従来推理小説のファンではなかった人々をも読者とした。その奥に政官財の要人七十人もが逮捕されながら、結局中心にいた大物は犬養健法務大臣の「指揮権発動」で捜査ができなくなってしまう。それを命じたのは、いずれはその大物を自民党の総裁にと考えていた吉田茂の指示だったと言われているが、この巨大な事件の過程で幾人もの下級、中堅の役人やビジネスマンが有罪になったり死に追いやられたりしているのである。小心者で真面目で勤勉な者ほど犠牲になるという社会の構造に対しての、大衆的な憤慨を松本清張は代弁しているのである。

その頃、僕の友人の政治部の記者が、政治家の中では知識人の要素を持っていた犬養法相が、指揮権発動の夜、「深酒をして酔っぱらっていた。指揮権発動が彼の良心を傷付けていたんだよ」と語ったのを僕は覚えているが、そのような〝小さな良心〟をものの数ともせずに、造船疑獄は一件落着となってしまうのである。

その時の権力にとって、不都合なことは存在しないのだ、という法則がここには現れている。そうして、そのような不合理の下で人間の弱さも醜さもその裸形を現すのである。その上、哀しいことに権力から遠い人ほど人間であることを捨てられずに悩むのだ。

その後も、政界、財界を揺るがすような事件はいくつもあった。なかでも佐藤内閣の時代の沖縄返還を巡る密約事件は人々の注目を引いたのである。僕も顔見知りの記者がその存在を察知してスクープした。僕が衆議院議長の秘書だった頃、彼は官邸詰めの記者で女性職員にも人気のあった男だった。しかし事件は密約文書流出のきっかけを作った外務省の女性事務官とその記者の〝不倫事件〟にすり替えられ、多くのメディアも、政府のそのすり替え策に乗り、裁判も密約があったかどうかの判断は行わないままに終わったのだ。なぜなら、時の権力にとって不都合な事柄は存在しないことになっているのだから。

そうした事件にぶつかった時、僕は松本清張だったらこの事件をどのように受け止め、どのように作品化するだろうと思ってしまう。たとえその大衆的正義感が僕にとって「永遠の憧憬」なのだとしても。こうした意味で松本文学は今でも僕の胸中に、判断者という形で生きているのだ。
殺意―松本清張短編全集〈04〉 / 松本 清張
殺意―松本清張短編全集〈04〉
  • 著者:松本 清張
  • 出版社:光文社
  • 装丁:文庫(309ページ)
  • 発売日:2008-12-09
  • ISBN-10:4334745202
  • ISBN-13:978-4334745202
内容紹介:
役員昇格を目前に控えた営業部長が、謎の服毒死を遂げた。青酸加里は、狭心症の見本薬に、どういう方法で仕込まれたのか。社内の親友が容疑者として浮かぶが、動機がわからない。日常生活の中に生まれる犯罪を描いて、探偵小説を推理小説に変えた「殺意」のほか、トラベル・ミステリーの先駆けとなった「白い闇」など、傑作八編。

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