書評

『ロリータ』(新潮社)

  • 2017/07/17
ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
ロリータ
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(462ページ)
  • ISBN-10:4105056050
  • ISBN-13:978-4105056056
内容紹介:
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師として… もっと読む
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師としてアメリカに渡った彼の下宿先には、一人の少女がいた。ロリータ。運命のいたずらから、ロリータと二人きりとなったハンバートは、彼女とともに車で全米を転々とすることになる-彼らを追跡する、謎の男が登場するまでは。少女愛というタブーに踏み込んだがためにスキャンダラスな問題作として広く知られる一方、本書が幾多の「謎」を重層的に含み込む、精緻極まるパズルのような名品であることは意外と知られていない。その緻密な「謎」ゆえに、今もなお世界中の読み巧者たちを引きつけてやまない文学の逸品、「言葉の魔術師」ナボコフの最高傑作が、発表50年を経て待望の新訳。
翻訳とはもっとも地味な手仕事である。単に語学が人並みはずれてできるというだけでは片付かない、辛苦の労働だ。ペルシャ絨毯を毎日コツコツと寡黙に織り続けるのに似た忍耐と、仕事の水準を一定に保つ禁欲的な自己認識が要求される。だからわたしは(自分も大変に苦労したことがあるからいうのだが)、気楽に翻訳家になりたいといってくる学生には、容易なことではキューを出さない。

だからときおり、こうした労苦のことを一瞬だが忘れさせてくれる驚異的なエピソードを聞かされてしまうと、思わずノケゾってしまうのだ。2005年に刊行されたナボコフの『ロリータ』の新訳がそうだった。

若島正によるこの新訳は、今から半世紀ほど前に大久保康雄が手がけた初訳と比べて、比較にならないほど精緻に拵えられている。その間に世界中でナボコフ研究が飛躍的に進んだこともあるが、第一にこの作品をポルノのベストセラーとしてではなく、亡命者の手になる文明批評の書物として、19世紀の英米文学への皮肉に満ちたアリュージョンとして理解しようという姿勢が、明確に窺われる。だがそれだけではない。この新訳は、現在の日本語でもっとも最前線にある、少女たちの言語をいちはやく活字にしたものとして、記憶されることだろう。たとえばこんなぐあいだ。

12歳のロリータが茶色い髪とねっとりとした首筋を見せながら、甲高い声で下品な言葉遣いをするのを、主人公の語り手は、実にかわいく思いながら記述する。原文では revolting, super, luscious, goon, drip となっているところを、若島は「ムカつく」「サイコー」「イケてる」「ダサい」「ウザい」と訳している。まあ、どこの英和辞典にも出ていない訳語だろう。またロリータが同級生の女の子のことを、少し意地悪な感情をこめて she's fright というくだりがある。fright というのは「怖い」とか「異常だ」と訳しておけば無難なのだが、「あの子ってキモいのよ」という訳になっている。他にもロリータは「ちょっと尻(けつ)どけてくんない」とか、過激な言葉遣いをじゃんじゃんしている。英米文学の翻訳に「キモい」という言葉が出てきたのは、たぶんこれが初めてだろう。

若島正という人はアメリカ文学の研究家としても、チェスプレーヤーとしても、知られている人物である。ナボコフについて論文やエッセイも多い。『ロリータ』の前の訳がひどくて、新訳が早く出てほしいという声は、すでに1960年代からあがっていた。ようやく氏による新訳が刊行されたことで、積年の思いが晴れたという読者は少なくないはずだ。わたしもその一人である。『ロリータ』は20世紀の文学作品のなかでも、とりわけノスタルジアとエロティシズムの交差する地点で執筆された、重要な作品なのだからだ。

では、その新訳がなぜに現在まで持ち越しになっていたか。この翻訳に付せられた後書き(事務局注:「若島正訳『ロリータ』単行本版あとがき」へを読んで、その理由がわかった。なんと若島氏は、実の娘が小説のなかのロリータと同じ12歳になるまで、翻訳をすることを待っていたというのだ。彼女が主人公と同年齢になったことを確かめて、氏はロリータの言葉遣いを日本の12歳の女の子のそれに合わせたという。「キモい」とか「イケてる」が登場するのは、そういうわけだったのか。

でも、これってかなりきわどい話じゃないだろうかと、わたしは思う。こないだたまたまハーヴァード大学で芥川龍之介を翻訳していると称する学者に会って翻訳の話になったところ、やはりこの話題になった。これが実の娘に取材して訳文を整えたのだからよかったけれど、もし協力者が連れ子だったり隣の家の女の子だったとしたら、もう変質者スレスレの行為になっちゃうんじゃない? わたしはそれを想像して、一瞬黙ってしまったのである。

ナボコフはいっている。男性がニンフェットの魔力に屈するには、ある程度の年齢差がなければいけない。年齢が10歳も違っていない男には、ロリータの本当のスゴさなどわからない。すべてものごとを見つめ鑑賞するには焦点調節が大切なのである。子供には子供のもつ独自の媚態も美もわからない。「内なる目が乗り越えようと興奮する距離、倒錯した歓喜のあえぎをもらしながら心が認識する対照の問題」が大切なのだ。

このナボコフの立場からすれば、成熟した女性との性的交渉を重ねたすえにそれに絶望した体験もないまま、幼げな女の子に熱中している日本の年少者の「おたく」たちは、真にロリータの魅惑を理解できるまでに、目の焦点を鍛えていないことになる。

本格ロリータへの道はかくも厳しいのだ。読者よ、ナボコフの小説に学べ。

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • 発売日:2007-09-00
  • ISBN-10:4166605925
  • ISBN-13:978-4166605927
内容紹介:
古典からサブカルチャーまで、今日の日本人にとってヴィヴィッドであるべき書物約155冊を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
ロリータ
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(462ページ)
  • ISBN-10:4105056050
  • ISBN-13:978-4105056056
内容紹介:
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師として… もっと読む
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師としてアメリカに渡った彼の下宿先には、一人の少女がいた。ロリータ。運命のいたずらから、ロリータと二人きりとなったハンバートは、彼女とともに車で全米を転々とすることになる-彼らを追跡する、謎の男が登場するまでは。少女愛というタブーに踏み込んだがためにスキャンダラスな問題作として広く知られる一方、本書が幾多の「謎」を重層的に含み込む、精緻極まるパズルのような名品であることは意外と知られていない。その緻密な「謎」ゆえに、今もなお世界中の読み巧者たちを引きつけてやまない文学の逸品、「言葉の魔術師」ナボコフの最高傑作が、発表50年を経て待望の新訳。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

言語道断(終刊)

言語道断(終刊) 2006年8月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
四方田 犬彦の書評/解説/選評
ページトップへ