書評

『越境の時 一九六〇年代と在日』(集英社)

  • 2017/08/26
越境の時―一九六〇年代と在日  / 鈴木 道彦
越境の時―一九六〇年代と在日
  • 著者:鈴木 道彦
  • 出版社:集英社
  • 装丁:新書(253ページ)
  • ISBN:4087203875
内容紹介:
『失われた時を求めて』の個人全訳で名高いフランス文学者は、一九六〇年代から七〇年代にかけて、在日の人権運動に深くコミットしていた。二人の日本人女性を殺害した李珍宇が記した往復書簡集『罪と死と愛と』に衝撃を受け、在日論を試みた日々、ベトナム戦争の脱走兵・金東希の救援活動、そして、ライフル銃を持って旅館に立てこもり日本人による在日差別を告発した金嬉老との出会いと、八年半におよぶ裁判支援-。本書は、日本人と在日朝鮮人の境界線を、他者への共感を手掛かりに踏み越えようとした記録であり、知られざる六〇年代像を浮き彫りにした歴史的証言でもある。
フランス語を学び、フランス文化に親しむというのは、明治以降の少なからぬ知識人にとって、社会変革のための理論を学ぶということであった。中江兆民しかり。大杉栄、石川三四郎しかり。だが昨今のフランス文学者たちを眺めてみると、かの地のそれなりにラディカルな現代思想を紹介はするものの、自分がその責任を負うべき日本という社会に対して何らそれを役立てようとせず、むしろ高踏的に構えてシニシズムをもってよしとする傾向が強い。フーコーが囚人問題に深く関わり、監獄改善のためのデモに参加しているときにも、大学の象牙の塔のなかで彼をめぐる不毛な言語遊戯に耽っているような学者たちのことを、中国では昔から「腐儒」といった。現在の日本では「パッチョロ」という。

鈴木道彦はこうしたパッチョロのなかで、例外的といえる存在である。彼は国際的なプルースト研究家であり、その大長編の翻訳家である。だがそれに留まらず、ユダヤという出自をもつこの稀代の小説家が、若き日に差別問題にどう向き合ってきたかを思考し、戦後日本社会において同様の問題がいかなる形をとって現われてきたかを、その場で見据え、その場で関わってきたフランス文学者であった。プルーストは研究室の内側の出来事にすぎないと見なすのが専門家であるとすれば、プルーストを批判的視座として現実の日本を見つめてみようとする鈴木の態度こそは、知識人と呼ぶにふさわしい。もう少し具体的にいおう。彼は1950年代後半から60年代にかけて、何人かの(在日)朝鮮人が犯した事件に関わり、彼らの動機と陳述をわがこととして深く読み込み、その法廷闘争に深く関わったのである。

東京の小松川で次々と女子高生が殺害された。犯人は極貧の家庭に育った在日朝鮮人の青年で、彼は文学を深く愛好し、みずから短編小説まで執筆していた。60年代に韓国がヴェトナム戦争に参加したとき、戦争放棄の憲法をもつ国だという理由だけから日本に亡命を求めてきた韓国兵士がいた。日本政府はその亡命を認めず、彼を強引に北朝鮮に送った。警察官とヤクザが朝鮮人である自分に対して、あまりに酷い侮辱的言動を続けることに怒って、殺人を犯してしまった在日朝鮮人がいた。彼は温泉旅館に閉じこもり、警察に対して謝罪を要求した。本書にはこうした事件のひとつ一つに著者がどう関わっていったか、その経緯が詳しく語られている。

そう、問題は「関わる」ことなのだ。鈴木道彦はどうして、関わる人となっていったのだろうか。それは彼が留学した1950年代後半のパリの知的環境が大きく影響している。植民地であったアルジェリアに解放闘争が沸きあがり、官憲の拷問と現地人の対抗暴力が激しく衝突していた。パリの知識人たちは独立を支持する声明を発表し、勇気ある者はフランス国家に対する異議を唱えた。鈴木は解放闘争の理論的支柱であるフランツ・ファノンの著作に親しみ、やがてそれを翻訳した。本書に語られているこうした知的遍歴を読むと、鈴木が在日朝鮮人問題に関わっていった経緯が優れて理解できる。と同時に、民族意識という観念をめぐる、彼の慎重なる懐疑のほどが理解できる。

解放闘争をめぐる大きな物語は終焉したと、ポストモダンの思想家リオタールは語った。日本ではこの発言は、学者にノンポリで留まっていられる都合のいい口実を与えただけだった。だが、はたしてそれでよかったのか。鈴木道彦のこの回想は、われわれが長らく蔑ろにしてきた「関わり」という言葉に、再考を促すことだろう。

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • ISBN:4166605925

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越境の時―一九六〇年代と在日  / 鈴木 道彦
越境の時―一九六〇年代と在日
  • 著者:鈴木 道彦
  • 出版社:集英社
  • 装丁:新書(253ページ)
  • ISBN:4087203875
内容紹介:
『失われた時を求めて』の個人全訳で名高いフランス文学者は、一九六〇年代から七〇年代にかけて、在日の人権運動に深くコミットしていた。二人の日本人女性を殺害した李珍宇が記した往復書簡集『罪と死と愛と』に衝撃を受け、在日論を試みた日々、ベトナム戦争の脱走兵・金東希の救援活動、そして、ライフル銃を持って旅館に立てこもり日本人による在日差別を告発した金嬉老との出会いと、八年半におよぶ裁判支援-。本書は、日本人と在日朝鮮人の境界線を、他者への共感を手掛かりに踏み越えようとした記録であり、知られざる六〇年代像を浮き彫りにした歴史的証言でもある。

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初出メディア

週刊文春

週刊文春 2007年6月7日

昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

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