書評
『知識人の時代―バレス/ジッド/サルトル』(紀伊國屋書店)
20世紀フランス知識人めぐる「時」の審判
『知識人の裏切り』のジュリアン・バンダの定義に従えば、「知識人」とは人種や階級や国家といった現世利益的な大義のためにではなく、「人間性」や「正義」という「抽象的で優越した原則」の名において政治権力の逸脱に抗議するという責務を負うた人々のことである。では、激動の二十世紀においてこうした責務を引き受けた「知識人」は、果たしてその政治参加において本当に「真実に忠実」という唯一にして至高の基準をクリアーすることができたのか? 本書は、「時の経過」という最大の審判者の目に照らしたフランス知識人の総決算(通信簿)である。
著者によると二十世紀で知識人の政治参加が際立っていたのは(1)一八九八年にゾラの「私は弾劾する……」を切っ掛けに国論を二分したドレフュス事件(2)マルクス主義がリトマス試験紙となった両次大戦間(3)冷戦構造の戦後の三つの時期だが、これらの時期はそれぞれモーリス・バレス、アンドレ・ジッド、ジャン=ポール・サルトルによって代表されるという。「三人とも、崇拝され、嫌悪され、模倣された。三人とも、数世代にわたる影響力によって、それぞれの時代を特徴づけていた」
この選択のうち、日本人にとってジッドとサルトルは理解できるが、バレスというのはいま一つピンとこない。ドレフュス事件だったら、むしろゾラやアナトール・フランスで「知識人」を象徴すべきではないのか?
この疑問に対して、著者は三人の共通する要素として、少なくともその初期においては反・体制順応主義的な著作で若者の心を掴(つか)んでいたことを挙げる。若者に対して、自我は親や国のためでなく全部自分のために使っていいんだよと説教したのだ。
バレスの『自我礼拝』がアンドレ・ブルトンのような根っからの反国家主義者まで魅了したのはそのためだが、バレスはやがてポジションを変える。すなわち「個人を守る最良の手段は社会そのものであることを悟る」に至り、国土、民族、国家、宗教という「社会の土壌」を断固擁護するようになる。ドレフュス事件に際して、バレスが反ドレフュス派に与(くみ)したのは、ドレフュスが有罪だったか否かという「些細(ささい)な問題」ではなく、国民の団結の根幹である陸軍の保持という大問題が先決であると考えたからである。ドレフュス派の知識人は矮小(わいしょう)な真実にこだわって大きな真実を歪(ゆが)める売国奴として扱われる。こうしたバレスの態度が国民の半分の支持を集めたのは今日からすると不可解だが、おそらく原因はバレスの散文の官能的な美しさにあったのだろう。バレスは内容よりも文章で人々を魅了する「右派のヴィクトル・ユゴー」だったのである。
両次大戦間の「良心」を代表したジッドはといえば、まず、社会的な道徳の規範よりも己の快楽原則を優先し、同性愛的傾向までもあえて告白するその「真実から目を背けない」姿勢により若者の喝采(かっさい)を呼び、ついで植民地主義やファシズムなどの「人間に対する不正」と戦うことで知識人の正道を歩むかに見えたが、ロシア革命という「新しい星」に幻惑されて蹉跌(さてつ)する。一九三一年にジッドは「ロシアへの共感を大声で叫びたい気分だ」と記し、共産党の操り人形にさえなるが、しかし、ソヴィエト旅行から帰ってからはついに幻想から覚める。
彼にしてみれば、悪は悪であり、それは告発すべきものだった。この種の証言が『時宜を得た』ものではない、と言い張る人びとの警告を受け入れることはできないだろう。なぜなら、圧政に対して真実を述べることは、けっして時宜を得ることがないからだ。結局のところ、ジッドはジュリアン・バンダの知識人の理論を身をもって示したのだ。つまり、どんな代償を払ってでもつねに真実を、という理論である。
では、戦後の知識人を代表するサルトルはどうだったのか? サルトルは結局、ジッドの線にまで達しなかったというのが著者の結論である。サルトルはソ連に強制収容所問題などのマイナス面があったとしても、それを断罪することで反共主義者を利することがあってはならないという同伴者的態度を出ることがなかったからだ。
では、戦後においてバンダのいう真の「知識人」の役割を演じたのは誰だったか? エコール・ノルマル以来のサルトルの友人でありながら、反共知識人として左翼から「権力の犬」扱いされたレーモン・アロンだった。
前者〔サルトル〕はいつも不可能なことしか夢見なかった。後者〔アロン〕は合理的理性の代表者という栄冠を獲得した。
二十世紀に増して真実と虚偽の境目があいまいな二十一世紀。レーモン・アロンとなることはもはや不可能なのだろうか? 本年一番の収穫である。(塚原史ほか・訳)
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