書評
『中世の秋』(中央公論新社)
ヨハン・ホイジンガの『中世の秋』を初めて読んだのは何時(いつ)か、はっきりした記憶はない。ただ、生産力と生産関係の矛盾と確執を歴史の唯一の運動法則と見る歴史観に疑問を感じるようになってからだいぶたってのことであるから、一九六〇年以後、七〇年代の初めの間に違いない。というのは、六〇年の安保反対闘争のなかで、それまでの革新思想にも、また新しく生まれた新左翼理論にも多くの留保条件を付けずにはいられなかった僕は、何とかして新しいものの考え方に目を開きたいと暗中模索の状態で毎日を過ごしていた。
書店で題名にひかれて手に取り、「中世末期の人間の皮相浅薄、でたらめ、軽信に絶えず示されている独特の軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)さは結局どう考えるべきものだろう。彼(かれら)等は屢々(しばしば)真の思考というものを全然必要としない様だし」という箇所(かしょ)を見た時、僕はこの著作の中に、安保闘争以後、所得倍増論へと見事に収斂(しゅうれん)されてしまった〝世論〟の本質を指摘する目がしまわれているに違いないと思ったのであった。その意味で僕の興味の持ち方は、この著作に対する学究の徒らしい真摯(しんし)さに欠けていたのだが、家に帰って読み始めると、第二章「美しい生活へのあこがれ」は、「いつの時代も一層美しい世界へと憧(あこが)れるものである。混乱した現在への絶望と苦痛が深まるほど、ますますその憧れは激しい。中世末期には生活の基調はきびしい憂鬱(ゆううつ)であった」という言葉で始まっていた。
読み進めるにつれて彼の歴史についての考え方が伝わってきた。彼は再三、歴史は単なる知識であってはならず、個人的な精神生活の中にそれを理解する基盤がなければならない、という意昧のことを説いている。この『中世の秋』は高度成長へと浮かれる中に暮らし、それを促進する立場にいて孤立感をひそかに深めていた当時の僕にとって、厳しく反省を迫りながらも、心を癒やしてくれる歴史書なのであった。
【この書評が収録されている書籍】
書店で題名にひかれて手に取り、「中世末期の人間の皮相浅薄、でたらめ、軽信に絶えず示されている独特の軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)さは結局どう考えるべきものだろう。彼(かれら)等は屢々(しばしば)真の思考というものを全然必要としない様だし」という箇所(かしょ)を見た時、僕はこの著作の中に、安保闘争以後、所得倍増論へと見事に収斂(しゅうれん)されてしまった〝世論〟の本質を指摘する目がしまわれているに違いないと思ったのであった。その意味で僕の興味の持ち方は、この著作に対する学究の徒らしい真摯(しんし)さに欠けていたのだが、家に帰って読み始めると、第二章「美しい生活へのあこがれ」は、「いつの時代も一層美しい世界へと憧(あこが)れるものである。混乱した現在への絶望と苦痛が深まるほど、ますますその憧れは激しい。中世末期には生活の基調はきびしい憂鬱(ゆううつ)であった」という言葉で始まっていた。
読み進めるにつれて彼の歴史についての考え方が伝わってきた。彼は再三、歴史は単なる知識であってはならず、個人的な精神生活の中にそれを理解する基盤がなければならない、という意昧のことを説いている。この『中世の秋』は高度成長へと浮かれる中に暮らし、それを促進する立場にいて孤立感をひそかに深めていた当時の僕にとって、厳しく反省を迫りながらも、心を癒やしてくれる歴史書なのであった。
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朝日新聞 2008年9月28日
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