書評

『夜の蟻』(筑摩書房)

  • 2017/11/07
夜の蟻 / 高井 有一
夜の蟻
  • 著者:高井 有一
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(279ページ)
  • ISBN-10:4480026975
  • ISBN-13:978-4480026972
内容紹介:
老いを迎え、死を身近にする平凡な日常生活を通して、現代家族の風景を重層的に鮮やかに捉える。読売文学賞受賞。
この短篇連作の主人公は、定年退職後、堀切の菖蒲園の近くに息子夫婦と住んでいる。もとの会社から翻訳の仕事を貰っているので生活には困らない。夫人も元気だから世俗的には恵まれた老人である。

しかし、それ故に、今日における老人の孤独な姿が純粋な形で、読む者に深く喰入ってくるようなのだ。

作品のなかには、若かった頃、妻と疎遠になり、なんとなく和解した思い出、老人特有の一般的不機嫌から、世間を痛罵していた叔父の死、息子の嫁の〝不倫〟めいた動揺と、手垢のついた言葉で嫁をなじる老妻への我にもあらぬ怒りの爆発などが、克明に、作者らしい抑制の利いたリリシズムで描かれる。そのなかから浮んでくるのは、時代にとり残され、迷い、仲間が次々に消えてゆく老人のうそうそと膚寒い姿である。

どうして、今日の老人は昔のように、人生の長老として係累に囲まれ、自他ともに存在感を確認できる晩年を持てないのか。それはおそらく、核家族化とか、世代間ギャップというような通念で済ましてしまってはいけないことだと、作者は、低い、しかし持続的な声で語っているように思われる。

たとえば、主人公は家霊を信じることができない。「今日の放浪」のなかで、彼は「私がもう少し昔者であったなら、家霊に責められてゐると感じたであらう」と思う場面が描写されている。「家族の虚実」では、親戚の退役少佐で、敗戦後は貸雑誌屋を営んでいた男が、自衛隊が作られて、いよいよまた自分達の時代が戻ってきたと胸を張る様が語られている。敗戦前後の自分は何をしていたのだろうと主人公は回想する。ここには、彼の淋しい人生風景にとって、戦争というものの時代の記憶が、消し難い刻印になっている気配がある。戦わなかった軍人である主人公は、戦わなかったことで、時代に傷つけられたのである。

息子の嫁の父親の七回忌に出かける「木彫の雛」では、地方都市に住む親戚達に融け込めない老夫婦が登場する。帰りぎわの、老妻との二人だけの、空港のレストランでの宴がはじめて解放感を与えるのは、都会住まいの彼等の感受性が鋭いからではおそらくない。環境によって与えられる刺戟を分類して蔵いこむ認識の整理棚(世界観)が、いつのまにか彼等から喪われているからなのだ。だから主人公はいつも周囲に気持を乱される。近所の個人タクシーの親父と団体旅行に参加しても途中で逃げ出さざるを得ない。そうして、昔から附合っている菖蒲園に戻ってくるのだが、そこでも彼は、かつての四季派の詩人達のように、自然の風物に埋没できない。こうして、総ての事物、人間との間に通路を持てない老人が残るのだけれども、それはもともと、歴史から断絶された人間の在るべき姿なのだと、作者は優しく、烈しく語っているのだ。

【この書評が収録されている書籍】
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本 / 辻井喬
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本
  • 著者:辻井喬
  • 出版社:勉誠出版
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2009-07-21
  • ISBN-10:4585055010
  • ISBN-13:978-4585055013
内容紹介:
作家・辻井喬の読んだ国内外あらゆるジャンルの書籍を紹介する充実のブックガイド。練達の読み手がさそう至福の読書案内。

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夜の蟻 / 高井 有一
夜の蟻
  • 著者:高井 有一
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(279ページ)
  • ISBN-10:4480026975
  • ISBN-13:978-4480026972
内容紹介:
老いを迎え、死を身近にする平凡な日常生活を通して、現代家族の風景を重層的に鮮やかに捉える。読売文学賞受賞。

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初出メディア

産経新聞

産経新聞 1989年7月10日

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