書評

日本の「文学」概念(作品社)

  • 2017/10/11
日本の「文学」概念 / 鈴木 貞美
日本の「文学」概念
  • 著者:鈴木 貞美
  • 出版社:作品社
  • 装丁:ハードカバー(431ページ)
  • ISBN:4878933089

※書店によっては、在庫の無い場合や取り扱いの無い場合があります。あらかじめご了承ください。
※詳しい購入方法は、各ネット書店のサイトにてご確認ください。

なぜいま文学なのか、という疑問は当然あるだろう。だが、「文学」や「近代文学」といった概念に対しこれまで本当に十分に思考がなされたのか。思想デフレと言説インフレの悪循環に陥る現代知の信用収縮を解消するためにも、一度概念の検討に立ち戻る必要がある。

文学について考えるとき、世の中に役立つかどうかが長いあいだ議論されてきた。だが、そもそも「文学はなにができるのか」という発問自体に問題があったのかもしれない。本来、文学は世のため人のために役に立たなければならない理由はどこにもない。社会に役立たなくても滅びないから、むしろその理由について考えるべきであろう。

本書は、「文学」という言葉の持つ多義性に着目し、これまで人々は「文学」あるいはそれに相当する概念にどのような内容を盛り込もうとしたのか、その歴史の究明を試みた。問題の性質上、取り上げられた対象は古今東西にわたる。だが、著者の最終的な関心はやはり「近代文学」とはなにか、の一点にある。

「文学」という言葉の歴史としてはこれまでもっとも詳しい論述であろう。著者はまず英語 literature の歴史を振り返り、近代的概念としての「文学」がどのように成立したかを整理した。と同時に、中国文学における「文学」という言葉の歴史と、「文学」に相当する概念の有無や、変化の歴史にも目を配り、また「文学」という訳語がいかに成立したかも丁寧に検証した。概念の成立はいかにジャンルの批評を可能にし、また制度として機能したかについての論述は簡にして要を得ている。

だが、本書はただ言葉の追跡にとどまらなかった。焦点はむしろ「文学」が内包するものはいかにして形成されたかにあてられている。なかでも明治時代における公用文体と教養の関係についての分析は示唆に富む。著者によると、役所の告示に「侯文」を用いた徳川幕府の習慣に取って代わって、明治政府は公文書に漢文読み下し体を採用し、政治記事を中心とした「大新聞」も漢文読み下し体で書かれていたという。こうした文体の転換はたんに記述形態にとどまらず、明治時代の教養のあり方を規定した、と説いている。

明治六年の「小学読本」から見られるように、学校教育において小学校からエリート育成の中・高等学校にいたるまで、漢文教育は英文とともに教養形成において中心的な役割を果たした、徳川期に儒学と漢詩文を意味した「文学」の観念と、ヨーロッパ語におけるラテン語を中心にした高度の教養や立派な文章を意味するbelles-lettresないしpolite literatureを重ね合わせたところに近代的な「文学」の原形が形づくられた、と論じた。言い換えれば、明治文学は西欧から来た「文学」の概念を直線的に受容したのではない。明治期の漢文学の隆盛を経てはじめて欧米文学を消化した。「文学」概念が形成される過程における重要な事実を明らかにしただけでなく、近代文化を考える上でも興味深い観点を示している。

文学の概念を追跡することによって、「国文学」の創出と近代ナショナリズムとのかかわりも浮かび上がってきた。それは近代国家をつくるというイデオロギーによってもたらされたというよりも、西欧の国民文学の誕生と一致する契機が日本にもあったと著者は指摘する。なぜならラテン語によるヨーロッパ共通の教養世界の解体は東アジアにおける漢詩文の衰退と一致するところがあるからだ。ナショナリズムだけがのさばったのではなく、いわゆるアジア主義はつねに平行しているという意見も傾聴すべきであろう。

これまでの近代文学定義に対する異議申し立ては、従来の理論を徹底的に批判する意味で痛快である。「近代的自我」や「客観的リアリズム」はかつて近代文学であるかどうかをはかる万能の物差しとされたが、著者によると、この基準は徳川時代の浮世草子や戯作のいずれでも当てはまり、これだけでは近代文学の説明にならない。

また、文体、風景描写や心理描写の分析を通して、「近代文学」の境界を示そうとする批評理論に対しても容赦ない批判が加えられた。「私小説」が日本の近代文学の主流ではなく、「私小説」の問題を中心にした近代文学史観にこそ問題があった、とする見方は問題の本質をつく卓見と言えよう。

むろん著者は従来の説をただ批判しただけではない。「誤りが折り重なった戦略に基づいてつくられた」日本の「近代文学」像、「近代文学史」観を徹底的に相対化し、根本から超えるために、自ら気宇壮大な「文芸史」構想を打ち出している。本書ではその片鱗しか示されていないが、やがて充実した研究結果を世に問うと予告された。われわれ凡人にとって驚愕すべき約束だが、実現できるかどうかと案じるのは杞憂(きゆう)であろう。読者の一人としてこの新しい文芸史の登場を首を長くして待ちたい。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN:4861940249

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日本の「文学」概念 / 鈴木 貞美
日本の「文学」概念
  • 著者:鈴木 貞美
  • 出版社:作品社
  • 装丁:ハードカバー(431ページ)
  • ISBN:4878933089

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1998年11月15日

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