解説
『山藤章二のブラック・アングル〈21〉』(朝日新聞社)
恥を知る人と知らない人のために
過日、東急東横線に乗っていたところ、通路を隔てて前に座っていたサラリーマン風の男が携帯電話に向かって大声で、「ですからその発注の段階の数量の違いをいまになって仰られてもですね、ええ、ええ、ええ、そうなんです。申し訳ありません。ええ。え、それはもうそうなんですが、あの、最初から御説明するとですねえ……」などとさかんにいいわけをしていた。
その彼の声はあまりにも大きく、また、電話を握りしめてぺこぺこと平身低頭をするその動作・ゼスチャーがあまりにも大仰であったため、いま将(まさ)に彼は、取引先をしくじりかけており、絶体絶命の窮地に陥っているということは、その車輛に乗り合わせたすべての人の知るところとなった。
こらえらいことになった、と、ことの成り行きを注視していると、彼は、一方的に電話を切られたとみえ、
「ええ、ですからですね。わたしいまから伺いますんで、ええ。ええ。ええ、ですからですね……」と必死の説得を続けていたのに、突如として絶句、電話を握りしめたままがっくりと肩を落とし、膝と膝の間に頭を埋めて微動だにしなくなってしまったのである。
蓋(けだ)し気の毒なおっさんである。
通常、現実というものはいま少し、陰影があったり色彩があったりするものだと思われている。ところが、このおっさんは落胆のあまり、まるでサラリーマン喜劇のごとくに典型的な反応をしてしまったのであり、その様は実に滑稽であった。
こういうことはしかし映画でやると監督に叱られる。なんといって叱られるかというと、クサイ、といって叱られるのである。というのは映画というカタチで現実をなぞる場合、申し上げたように現実は、もう少し陰影や色彩に富んでいるものと思われているのであって、そんな単純化しちゃうとさあ、客は白けるんだよ。そうすっとどうなる? あの映画はみえみえでおもろない映画や、ちゅう評判が立って、劇場に客が来なくなって上映は早々に打ち切りになり、あんなしょうむない映画撮ったんは誰や? ちゅうことになるとそれは僕ってことになり、結局、僕がその責を負う、ってことになるんだよ。君はその頃、別の現場でまたぞろ、そうやってクサイ芝居をしてるだろうからいいかも知らんけど、僕は困る。だからそのクサイ芝居はやめてね。と、叱られる。
つまりだからなにか現実になぞらえた、もうひとつの別の現実のごときを拵えようとした場合、現実に対して慎重になるというか、気を遣うというか、そういう気持ちになるのが常で、同じ、ダサイおっさんを描くのでも、ちゃんとやろうとすると、様々の光と影がそのおっさんのなかに交錯させないと、おっさんがなまなまとダサク、生き生きと滑稽に映らぬのである。
ところが最近、少しくやばいのは、そうして映画やなんかの、基本というか手本というか、まあ、こういうことがホントなんで、それを若干歪ませて映しますんで、そこんとこよろしく、つってやってきた現実の方が、右の東横線のおっさんじゃないけれども、逆に単純化、切迫したような様相を呈してきたというのは因果で、『山藤章二のブラック・アングル』はそうした現実を切り取って鋭く早く、例えばブラック・アングルには政治家が頻繁に登場するけれども、選挙に受かりてぇ。保身をはかりてぇ。なんて目的のために根性丸出しで走り回っているからこそ、政治家はブラック・アングルに登場する栄誉に浴することができるのであって、多分だから、政治家になって収賄をして、そいでそれがばれて、そいで一度でいいからブラック・アングルに載りてぇ、といった複雑な動機をもって政治家を志すような人はけっしてブラック・アングルには取り上げて貰えないし、それ以前に、絶対に選挙に受からぬのである。
そいで、そうして目的丸出しの人を見た場合、庶人はどう思うか、というと、なんだよー。あいつよー。と思う。つまり、先ほどの、そんなにまでして勲章が欲しいのか? というのと同じで、そんなにまでして職にしがみつきてぇのか? そんなにまでして金が欲しいのか? と、当事者にしたら、あたりまえじゃ。ぼけ。と言うに違いない感想を抱くのであって、なぜそう思うかというと、まあ、いろいろ言えるが、そういうみっともない、恥も外聞もない、身も蓋もない、姿が他人事ながら(他人事だから)、見苦しい、恥ずかしい、苦々しいなどと思えるからで、しかし自分たちだって、仕事で忙しいから、なんだよー。あいつよー。といって済まさざるを得ず、なにか気持ちのなかに澱(おり)のようなものが残る。じゃりじゃりする。ああ、うっとおしいわねー、と思うのが常で、ブラック・アングルは、そういう釈然としない気持ちにカタチを与え、庶人をして、そう、そうなんだよー、と絶叫せしむる気色の良さがあって実にいい。
ブラック・アングルで一年を振り返ると1999年は、いろいろなものがぐずぐずになった。内閣総理大臣は内閣総理大臣に対して揶揄的であったり風刺的であったりする表現を自ら口にしてまるで内閣総理大臣のパロディーのような内閣総理大臣だったし、神奈川県警は米国の探偵小説に出てくる悪徳警官のたまり場のようだったし、大体の人が絶対にそんなものは固いにきまっていると思っていたコンクリートがぐずぐずになった。その一方で人民の食う問題というのが解決されて大分経つ我が国では、それまで食うのに精一杯であった人たちが人生に目的をもたねぇといけねぇんじゃねぇか、と考えるようになり、しかしまあ目的たって、そんな容易に見つかるものではないので、レディー・メイドの目的、商品化された目的、すなわち、レジャーを目的とするようになって、右に申し上げたような単純化、欲望の丸出し化、うまいものを食いてぇ、なんて、欲望を口にして憚らぬ、自由狼藉世界が顕現して、恥や外聞、身や蓋ということを気にする人が少なくなったのである。
ブラック・アングルはいまや複数の機能を有している。ひとつには、恥や外聞を知っていてときにやせ我慢をすることもある人が、身も蓋もない、目的丸出しの野暮行為を見て、頭や心がむずむずする際、これを読み、そうそうそう、と納得してにやにやするため。他には、恥も外聞も知らぬ人がこれを読み、世の中には、恥、外聞、身、蓋などがあるということを勉強するため、或いは、内閣総理大臣が、内閣総理大臣ってこんな感じなのかな、などと内閣総理大臣の心性・佇(たたまず)いを勉強するため、なんて、ブラックな機能もあるのかも。この他にも、笑ったり感心したり唸ったり、様々のおもしろさがあると思いました。あまり関係がないのだけれども、筆者の場合は、阪神タイガースが大敗した翌日。タイガース関連の回を能面のような表情で長時間見つめ、ややあって薄く笑うなどすることもありましたね。
って、ああそう、顔もいいですね。通常、僕らは自分にも顔があるし、他の人にも顔があるので、顔なんてあたり前というか、普通のものだと思っているけれども、ブラック・アングルに切り取られた顔には、その時代にしかない、顔、或いは表情が、きわめて特徴的にあらわれていて、五年後。十年後に読む楽しみもありますね。へっへっへっ。この顔。なんつって。ブラック・アングルの偉大だと思います。
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