書評
『娼婦』(藤原書店)
姿をくらますエロス
規制をするからはみだす。相手は「世界最古の職業」である。近代ブルジョア思想の成立以前から、いたるところに生きていた。なくてもいいという性質のものではないらしい。糞尿処理が人体にとっても社会にとっても必要であるように、娼家という「精液の排水溝」も社会にとって、ここではとりわけ十九世紀ブルジョア社会にとって、不可欠と思われた。たれ流しはいけない。厳密に設計され、隔離されて、一望監視のきく「精液の排水溝」でなければならない。そういえばマレーネ・ディートリッヒもいった。「娼家のない国は便所のない家のようなものだ」そこで十九世紀フランスに、ブルジョア社会でもっとも早い公娼制度が成立した。規制と隔離による売春の監視。しかし相手は生き物なので、規制をしてもはみだす。公娼というものをつくるから気楽な稼業の私娼がはびこる。やがては公娼も脱走し姿をくらまして、別のどこかでまたはじめる。規制とはみだし、監視と脱走のイタチごっこだ。時代の好みも変わる。即物的な「精液の排水溝」にあきがきて、娼家は世紀末の特殊な好みに見合う高級サロンに変貌し、人妻の姦通不倫の場ともなる。とともに公娼制度は時代後れとなり、代わって梅毒恐怖を口実とする保健衛生主義が監視の主役となる。あらゆる口実のもとに娼婦の監視は続く。ブルジョアジーは、彼女たちとの境界設定を通じてはじめて自己の「健全な」身体を認識するからだ。
梅毒が治療可能になるとともに、保健衛生主義の監視も無意味になる。応じて売春規制も消滅したかに見えたが、エイズの出現とともにフランスでは公認娼家復活案が持ち上がった。一九七四ー五年には、リヨンの売春婦たちが「自分たちに向けられるまなざし」を変えたいという要求をかかげて教会を占拠した。七〇年代のこの運動はしかし、売春という職業の市民権請求とも見えかねず、売春婦はいまや快楽のテクノロジーの担い手となるか、「単調な生活への体当たり的反乱」の表現として生きるかの、予断を許さぬゆれのなかにあるという。
十九世紀ブルジョア社会の成立とともにはじまる身体の監視装置が、法的規制、予防医学、テクノロジーと次つぎに手立てを変えながら、そのつどエロティシズムの総体をつかまえそこなう「歴史」を、それこそ一望のもとにまとめてみせた。
【新版】
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1991年3月30日
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