書評
『雲をつかむ話』(講談社)
ふわふわと流転を重ねる言葉
始まりは、ベルリンに住む作家の語り手の「わたし」が「朝、白いリボンのように空を横切る一筋の雲を見ているうちに」ある犯人との出逢(であ)いを思いだしたこと。そうするうちに、語り手の「過去がずるずると雲蔓(くもづる)式に引きずり出されて」くるという回想の形式をとっている。が、それは「体験話というものが何度も繰り返し話しているうちに嘘になって熟していくのはなぜだろう」と書いたり、日本語の「いわし」とドイツ語の「ふぉれれ(鱒<ます>)」がどちらも口の中で柔らかく崩れるという理由で結びついたりする多和田葉子式の回想であるから当然、一直線には進まず、話はふわふわと旅(ワープ)をし、ことばは流転を重ねることになる。「わたし」がハンブルグにいる頃、自宅で自著を販売していると、買い手が訪ねてくる。これがじつは警察に追われる犯人で、語り手は後に獄中の男から手紙をもらってその真相を知る。犯人という語が、その漢字の形が、また触媒となって、「わたし」が見聞きしてきたありとあらゆる罪と犯人と囚人が語られ、ページに溢(あふ)れる。殺しから、傷害罪、政治罪、郵便物窃盗や身分証の偽造、無賃乗車、ちょっとした無断借用まで(読んでいて一番怖いのは最後のものなのだが)。回想中の語り手は、文学祭で老人ホームに寝泊まりしたり、不思議な双子に翻弄されたり、罪人のマボロシさんを想(おも)ったり、エルベ川沿いを女医と歩いたり……。
一番怖いと書いた「犯罪」については詳述しないが、たとえば辞書までが「単語をごっそり奪われて痩せ」てしまい、作者は「他人の欲望の中に無断で入り込む」という表現をしている。なんだか、自分が書くつもりの作品をことごとく有名作家に盗まれていると思っておかしくなってしまったスペイン作家の短篇(たんぺん)を思い出した。
そう、作家はある意味、他人の体験を盗む泥棒なのだ。そして本作でもっとも読者を魅了するのは、ことばという罪とその謎解きではないか。とはいえ、解けずに一層こんがらがることの方が多いのだけれど!
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