書評
『めぐらし屋』(毎日新聞社)
トヨザキ的評価軸:
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
主人公はビルの管理会社に就職して二十年近くになる独身の蕗子さん。物語は、父親のアパートで遺品の整理をしていた蕗子さんが、表紙に「めぐらし屋」と記されたノートを見つけるところから動き始めます。母親と離婚して以来、年に一度会うか会わないかになっていた父。子供の頃に描いた黄色い傘の絵を大事にとっておいてくれた父。若い頃、池に転落して溺れていた少年を助けて新聞に載ったことを自慢もせず黙っていた父。〈わからないことは、わからないままにしておくのがいちばんいい〉と教えてくれた父。
「めぐらし屋」が何たるかの謎を、仕事の合間にのんびり追ううち、〈近しい感じはするのにその当時から抱えていた距離をなかなか詰めてくれない、あたたかい謎〉だった父の記憶が、蕗子さんの中で再構築され、父の記憶に導かれるかのように自分自身のささやかな記憶もまた蘇ってくる。思い出や愛情といった他の何かで代替のきかないものについて、先を急ぐあまりゆっくり思いを巡らせる時間を惜しみ、モノやお金のような味気ないものに換算し、顧みることのない世界に対する違和感を、声高にではなく、蕗子さんという〈細かいところと抜けたところが、すごく平和に共存して〉いる穏やかなキャラクターの言動を通して描くことで、この小説の世界はとても居心地のいい場所になりえているのです。
個々人に流れる時間の中で積もったり散ったり、蘇ってくる記憶。堀江さんがこれまでの作品で繰り返してきたテーマが、この小説の中でも女性視点ゆえの柔らかな文体で変奏されています。蕗子さんはもちろん、年下の同僚や、生前の父の話を聞かせてくれる酒造会社の大旦那といった登場人物の、骨格がしっかりした造型も見事。それゆえ読者は、最後ある決意をする蕗子さんのその後が知りたくなってしまう。これはそんな親密な空気に包まれた作品なのです。
ここには驚くような謎解きや波瀾万丈の展開はありません。ごくごく日常サイズの小説なのです。だけど、好き。だから、好き。主人公がじき四十歳の未婚女性だからといって、「負け犬」小説なんて片づける人がいたら、ぬっ殺しますんでよろしく。
【この書評が収録されている書籍】
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
ごく日常サイズの小説。だけど、好き。だから、好き。
プリーストの『双生児』(早川書房)みたいな最後に「!」が用意されているトリッキーなエンタメも好き。パワーズの『囚人のジレンマ』(みすず書房)みたいに頭を使う現代文学も好き。福永信の『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)みたいな脱臼した小説も好き。読書の趣味傾向に節操のないわたしは、だからこんな小説も好きなんであります。堀江敏幸『めぐらし屋』。主人公はビルの管理会社に就職して二十年近くになる独身の蕗子さん。物語は、父親のアパートで遺品の整理をしていた蕗子さんが、表紙に「めぐらし屋」と記されたノートを見つけるところから動き始めます。母親と離婚して以来、年に一度会うか会わないかになっていた父。子供の頃に描いた黄色い傘の絵を大事にとっておいてくれた父。若い頃、池に転落して溺れていた少年を助けて新聞に載ったことを自慢もせず黙っていた父。〈わからないことは、わからないままにしておくのがいちばんいい〉と教えてくれた父。
「めぐらし屋」が何たるかの謎を、仕事の合間にのんびり追ううち、〈近しい感じはするのにその当時から抱えていた距離をなかなか詰めてくれない、あたたかい謎〉だった父の記憶が、蕗子さんの中で再構築され、父の記憶に導かれるかのように自分自身のささやかな記憶もまた蘇ってくる。思い出や愛情といった他の何かで代替のきかないものについて、先を急ぐあまりゆっくり思いを巡らせる時間を惜しみ、モノやお金のような味気ないものに換算し、顧みることのない世界に対する違和感を、声高にではなく、蕗子さんという〈細かいところと抜けたところが、すごく平和に共存して〉いる穏やかなキャラクターの言動を通して描くことで、この小説の世界はとても居心地のいい場所になりえているのです。
個々人に流れる時間の中で積もったり散ったり、蘇ってくる記憶。堀江さんがこれまでの作品で繰り返してきたテーマが、この小説の中でも女性視点ゆえの柔らかな文体で変奏されています。蕗子さんはもちろん、年下の同僚や、生前の父の話を聞かせてくれる酒造会社の大旦那といった登場人物の、骨格がしっかりした造型も見事。それゆえ読者は、最後ある決意をする蕗子さんのその後が知りたくなってしまう。これはそんな親密な空気に包まれた作品なのです。
ここには驚くような謎解きや波瀾万丈の展開はありません。ごくごく日常サイズの小説なのです。だけど、好き。だから、好き。主人公がじき四十歳の未婚女性だからといって、「負け犬」小説なんて片づける人がいたら、ぬっ殺しますんでよろしく。
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