書評
『帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画』(名古屋大学出版会)
本書の日本語版が1995年に刊行されたとき、少なからぬ映画研究家がその意義を認める書評を執筆した。ただひとつ、日本共産党の機関紙である『赤旗』だけが、それを批判した。『赤旗』は、著者が日本人ではなくアメリカ人であることを不自然なまでに強調し、本書が矛盾に満ちていると批判したばかりか、それが「意図的」なものであると非難した。
この非難の原因はあきらかであった。著者のピーター・ハーイは、第2次大戦後の日本映画においてもっぱら「平和と民主主義」を喧伝するためにフィルムを監督してきた二人の「進歩的映画人」、今井正と山本薩夫が、戦時下においていかなる戦争協力映画を撮ってきたかについて、臆することなく分析を施したからである。それは佐藤忠男を含め、戦後半世紀の間、日本の「進歩的」な映画評論家にとっては言及してはならない聖域であったのだ。ピーター・ハーイはアンデルセンの童話よろしく、「王様は裸だ」と喝破したために、左翼官僚の怒りを買ってしまったというわけである。
1931年の日本軍による中国大陸侵攻から、1945年の敗戦にいたるまでの15年間に、日本でどのようなフィルムが制作され、映画産業と観客とがどのような変化を見せたかという問題は、これまで充分に論じられてこなかった。旧世代の評論家は、それを率直に語るにはあまりに個人的な禁忌が多すぎたし、下手をすればみずからの墓穴を掘る恐れがあった。文学の世界では、吉本隆明が戦争責任の問題を追及し、思想の領域では鶴見俊輔のグループが知識人の「転向」現象をめぐって論議を重ねてきた。だが残念なことに、こと映画史の領域では、これまでそれに匹敵する試みがほとんどなされてこなかった。それは連合国占領期の日本において、映画人の戦争責任がきわめて曖昧な形で終わってしまったことに、奇しくも対応している。戦時中に軍国主義の女神であった原節子が、戦後いちはやく黒澤明の『わが青春に悔なし』で民主主義のヒロインを演じ、現在の小津安二郎ブームのなかで、ノスタルジアの特権的対象とされていることを考えてみよう。こうした一女優をめぐる神話の変遷の背後に、いったい何が隠蔽されてきたのかを問う試みは、日本映画史研究のなかでほとんどなされてこなかったのである。
新しい世代の日本の審美家たちは、映画とファシズムの関連などテクストの芸術性とは無関係な挿話にすぎなかった。きわめて例外的な存在はノエル・バーチである。彼は戦時下の日本映画こそ、それがハリウッドの文化的ヘゲモニーを脱して、独自に日本的な文体を洗練化させた時期であると、肯定的に評価した。もっとも大方の映画評論家にとっては、衣笠の『狂った一頁』に代表されるように、1920年代が前衛と実験の輝かしい時代であったのと対照的に、次の15年間は逆に文化的暗黒時代であったと見なして、あえて言及しないという立場が主流を占めていた。
本書はこうした日本の映画史的停滞状況に一石を投じたという意味で、記念碑的な書物である。ここでは日本映画に固有の美学がハリウッドと対立的な形で顕彰されているわけでもなければ、一部の軍閥の横暴によって、映画産業が一方的に蹂躙されて、歪んだものへと変質していったという、戦後に流行した公式的図式が採用されているわけでもない。篤実な研究家であるハーイが試みているのは、かつてかくもモダンでコスモポリタンな感受性と知性を備えていた日本の映画人たちが、どのようにして軍国主義的イデオロギーの側に「集団転向 mass-tenko」していったかを、夥しい文献と映画資料を通して、実証的に検討するという作業である。日本共産党がこれ以上心配をしないように付記しておくと、彼は映画人の一人一人の、個人的な戦争責任を追及すべき(あるいは、しうる)時期は、すでに過去のものになっていると認識している。現在において考えるべきは、なぜ日本の映画人(を含む知識人全体)が、あの時期に一種の思考停止に陥り、軍国主義に荷担する行動をとってしまったかを、冷静に分析することでなければならない。
30年代における、国策的なニューズ映画のはたした役割。巨大な中国大陸をめぐる映画人たちの期待と不安。「映画法」の制定の前後の、映画人たちの興奮。映画人と官僚との対決と競合。前線の兵士たちの忍耐と困苦を表象することの意味。植民地の朝鮮でなされた国策的映画製作。アメリカとの開戦後に制作された戦争スペクタクル映画の諸問題。兵士たちを送り出した後の、母親たちの表象の変遷。戦後に映画人がみせた反省の皮相さと責任回避の姿勢。こうした主題が次々と登場しては精緻に分析を施され、有機的な関連をもって語り続けられる。先に言及した黒澤映画の題名をもじって、著者は問いかける。いったい誰の青春に「悔なし」だというのか?
著者はこの大著の最後に、戦前にはからずもナチスドイツとの合作映画の監督をしてしまった伊丹万作が、1946年に戦争責任問題をめぐって行なった発言を引用している。「『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである」。戦後、現在まで続く、日本人=被害者論のイデオロギーの偽善をみごとに先取りして見抜いたうえで、アメリカの占領軍が強要してきた戦争観に対しても懐疑の心を喪わない、みごとな態度である。伊丹はこの発言の直後に死亡したが、本書の著者は今こそ彼の言葉のもつ重みと正当性を想起しなければならないと、訴えている。
ちなみに小津安二郎生誕100年に当たる2003年は、東京を起点として小津について語ることが世界的ブームとなった年であった。『東京物語』の監督は、現在の日本では、すでに遠い昔に日本人が喪失してしまった真実の日本を証明するノスタルジアのフィルムとして喧伝され、海外に自信をもって差し出すことのできる、発信型文化ナショナリズムの貴重な項目へと昇格した。日本の映画界は、晩年の黒澤明に対して冷淡であったことの罪悪感を埋め合わせるかのように、小津の国際的喧伝に忙しい。だがそこでは、本書の著者がいくたびも論じている、戦時下の小津映画が見せた家父長的イデオロギーと戦争との関係はすべて隠蔽されてしまい、安全無害な「巨匠」の映像だけが、骨董品のように生き延びている。小津が国際的に称賛される傍らで、彼のかつての盟友であり、戦後も中国東北部に進んで残留し、新中国の映画製作に貢献した内田吐夢が、みごとに忘れ去られているという奇妙な事実は、今日の日本の映画批評における歴史的なるものへの拒否の状況を知るうえで、きわめて興味深い現象といえる。
本書は文字通りの意味での労作である。著者がこの書物を完成させるにいたって遭遇したさまざまな困難は、容易に想像される。著者は書物の余白で、日本社会は官僚制という点において、戦前と戦後にいかなる断絶もないとユーモラスに宣言している。東京のフィルムセンターが、海外へのフィルム貸出問題を含めて、きわめて社会主義的に官僚的であることを知っている者なら、ここまで読み進んで腹を抱えて笑うことだろう。
【この書評が収録されている書籍】
 
 この非難の原因はあきらかであった。著者のピーター・ハーイは、第2次大戦後の日本映画においてもっぱら「平和と民主主義」を喧伝するためにフィルムを監督してきた二人の「進歩的映画人」、今井正と山本薩夫が、戦時下においていかなる戦争協力映画を撮ってきたかについて、臆することなく分析を施したからである。それは佐藤忠男を含め、戦後半世紀の間、日本の「進歩的」な映画評論家にとっては言及してはならない聖域であったのだ。ピーター・ハーイはアンデルセンの童話よろしく、「王様は裸だ」と喝破したために、左翼官僚の怒りを買ってしまったというわけである。
1931年の日本軍による中国大陸侵攻から、1945年の敗戦にいたるまでの15年間に、日本でどのようなフィルムが制作され、映画産業と観客とがどのような変化を見せたかという問題は、これまで充分に論じられてこなかった。旧世代の評論家は、それを率直に語るにはあまりに個人的な禁忌が多すぎたし、下手をすればみずからの墓穴を掘る恐れがあった。文学の世界では、吉本隆明が戦争責任の問題を追及し、思想の領域では鶴見俊輔のグループが知識人の「転向」現象をめぐって論議を重ねてきた。だが残念なことに、こと映画史の領域では、これまでそれに匹敵する試みがほとんどなされてこなかった。それは連合国占領期の日本において、映画人の戦争責任がきわめて曖昧な形で終わってしまったことに、奇しくも対応している。戦時中に軍国主義の女神であった原節子が、戦後いちはやく黒澤明の『わが青春に悔なし』で民主主義のヒロインを演じ、現在の小津安二郎ブームのなかで、ノスタルジアの特権的対象とされていることを考えてみよう。こうした一女優をめぐる神話の変遷の背後に、いったい何が隠蔽されてきたのかを問う試みは、日本映画史研究のなかでほとんどなされてこなかったのである。
新しい世代の日本の審美家たちは、映画とファシズムの関連などテクストの芸術性とは無関係な挿話にすぎなかった。きわめて例外的な存在はノエル・バーチである。彼は戦時下の日本映画こそ、それがハリウッドの文化的ヘゲモニーを脱して、独自に日本的な文体を洗練化させた時期であると、肯定的に評価した。もっとも大方の映画評論家にとっては、衣笠の『狂った一頁』に代表されるように、1920年代が前衛と実験の輝かしい時代であったのと対照的に、次の15年間は逆に文化的暗黒時代であったと見なして、あえて言及しないという立場が主流を占めていた。
本書はこうした日本の映画史的停滞状況に一石を投じたという意味で、記念碑的な書物である。ここでは日本映画に固有の美学がハリウッドと対立的な形で顕彰されているわけでもなければ、一部の軍閥の横暴によって、映画産業が一方的に蹂躙されて、歪んだものへと変質していったという、戦後に流行した公式的図式が採用されているわけでもない。篤実な研究家であるハーイが試みているのは、かつてかくもモダンでコスモポリタンな感受性と知性を備えていた日本の映画人たちが、どのようにして軍国主義的イデオロギーの側に「集団転向 mass-tenko」していったかを、夥しい文献と映画資料を通して、実証的に検討するという作業である。日本共産党がこれ以上心配をしないように付記しておくと、彼は映画人の一人一人の、個人的な戦争責任を追及すべき(あるいは、しうる)時期は、すでに過去のものになっていると認識している。現在において考えるべきは、なぜ日本の映画人(を含む知識人全体)が、あの時期に一種の思考停止に陥り、軍国主義に荷担する行動をとってしまったかを、冷静に分析することでなければならない。
30年代における、国策的なニューズ映画のはたした役割。巨大な中国大陸をめぐる映画人たちの期待と不安。「映画法」の制定の前後の、映画人たちの興奮。映画人と官僚との対決と競合。前線の兵士たちの忍耐と困苦を表象することの意味。植民地の朝鮮でなされた国策的映画製作。アメリカとの開戦後に制作された戦争スペクタクル映画の諸問題。兵士たちを送り出した後の、母親たちの表象の変遷。戦後に映画人がみせた反省の皮相さと責任回避の姿勢。こうした主題が次々と登場しては精緻に分析を施され、有機的な関連をもって語り続けられる。先に言及した黒澤映画の題名をもじって、著者は問いかける。いったい誰の青春に「悔なし」だというのか?
著者はこの大著の最後に、戦前にはからずもナチスドイツとの合作映画の監督をしてしまった伊丹万作が、1946年に戦争責任問題をめぐって行なった発言を引用している。「『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである」。戦後、現在まで続く、日本人=被害者論のイデオロギーの偽善をみごとに先取りして見抜いたうえで、アメリカの占領軍が強要してきた戦争観に対しても懐疑の心を喪わない、みごとな態度である。伊丹はこの発言の直後に死亡したが、本書の著者は今こそ彼の言葉のもつ重みと正当性を想起しなければならないと、訴えている。
ちなみに小津安二郎生誕100年に当たる2003年は、東京を起点として小津について語ることが世界的ブームとなった年であった。『東京物語』の監督は、現在の日本では、すでに遠い昔に日本人が喪失してしまった真実の日本を証明するノスタルジアのフィルムとして喧伝され、海外に自信をもって差し出すことのできる、発信型文化ナショナリズムの貴重な項目へと昇格した。日本の映画界は、晩年の黒澤明に対して冷淡であったことの罪悪感を埋め合わせるかのように、小津の国際的喧伝に忙しい。だがそこでは、本書の著者がいくたびも論じている、戦時下の小津映画が見せた家父長的イデオロギーと戦争との関係はすべて隠蔽されてしまい、安全無害な「巨匠」の映像だけが、骨董品のように生き延びている。小津が国際的に称賛される傍らで、彼のかつての盟友であり、戦後も中国東北部に進んで残留し、新中国の映画製作に貢献した内田吐夢が、みごとに忘れ去られているという奇妙な事実は、今日の日本の映画批評における歴史的なるものへの拒否の状況を知るうえで、きわめて興味深い現象といえる。
本書は文字通りの意味での労作である。著者がこの書物を完成させるにいたって遭遇したさまざまな困難は、容易に想像される。著者は書物の余白で、日本社会は官僚制という点において、戦前と戦後にいかなる断絶もないとユーモラスに宣言している。東京のフィルムセンターが、海外へのフィルム貸出問題を含めて、きわめて社会主義的に官僚的であることを知っている者なら、ここまで読み進んで腹を抱えて笑うことだろう。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする







































