書評

『シボレート―パウル・ツェランのために』(岩波書店)

  • 2017/11/26
シボレート―パウル・ツェランのために / ジャック デリダ
シボレート―パウル・ツェランのために
  • 著者:ジャック デリダ
  • 翻訳:守中 高明,小林 康夫
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • 発売日:1990-03-27
  • ISBN-10:4000026763
  • ISBN-13:978-4000026765
内容紹介:
いまや今世紀最大の詩人と目されるパウル・ツェランも、デリダによるこのユニークなツェラン論によって紹介されるまで、フランスでもほとんど無名に近かった。ツェランの詩集『閾から閾へ』に収められた詩「合言葉(シボレート)」を中心、パリのセーヌ川に身を投じて死んだ、この悲劇的な詩人の作品を、デリダは精細に読み解く。
わたしたちがこの詩を無造作に反訳によって読めば、シュプレー川やハーヴェル川やラントヴェーア運河という地勢の名前が意味あり気な場所で、そこで事件が起こった。その事件は血腥いもので匿名の男は銃弾をたくさんうけて非業に倒れ、妻である女は捕われて人間以下の侮蔑をうけて、運河に投げこまれ死んだ。ツェランの出自をかんがえると、第二次大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺を暗示しているかもしれない。またツェランの歴史意識によって、この男と女は匿名ではなく記念碑的な歴史的事件であるかもしれない。この詩の反訳者飯吉光夫はラントヴェーア運河はローザ・ルクセンブルグが投げこまれたところ、その夫カール・リープクネヒトは射殺された。またシュプレー川とハーヴェル川はナチスによってユダヤ人が処刑されたところだと注釈している。わたしたちでも地勢名やそこであった殺人事件のことをあらかじめ調べたうえで読めば、この詩の背景がひとつの記念碑的な事件であり、この詩がその痛みを忘れるな、記憶せよとうたっているのだとわかるかもしれない。つまり「日付」がわかった事件の詩として読むか、「日付」はわからないが推測によって事件が暗示された詩として読むことはできる。だがデリダの「日付」の哲学的考察からは別の読み方が可能になる。この詩の外に印された「日付」とその「日付」が詩そのものの内部にとりこまれて溶けこんでしまった痕跡の「日付」との境界をずらしたり、その境界を無くしてしまったりする読み方ができるはずだ。ツェランの詩はそれを要請さえしているとデリダはいう。作者である詩人が個人的な体験の「日付」をこの詩のなかにひそかに刻印しておく。それはその「日付」にまつわる外在的な事件を調べることで個人的な体験がいつであったかを知ることができるからだ。そのことは「日付」のあるその事件が私的体験として何かをすることと同義なのだ。そのほかにもうひとつの読み方が成り立つ。その事件の「日付」を知らないから、詩の私的な内在の場所を想像して読むほかないことだろうか。そうではない。詩の外にある「日付」が、たとえば二月二十三日であるとすれば、その「日付」に何が起ったかを知らなくても、作者である詩人の個人的な体験の内在として、いいかえればかれが背景にかくしたために「日付」のある内在になったこの詩の「日付」を読むことができる。デリダによればツェランの詩では「日付」は、このように本質的でかつ非本質的なのだということになる。そしてそれは「日付」の本来の構造に由来するというのがデリダの考え方である。

ツェランの詩のなかの地勢の名前、町の名前それらをつなげている出来事の暗示、雰囲気、ちがった民族語からくる距離感、伝記が刻みこまれているとみられるばあいの詩の言葉の位置のちがい、それらはこのデリダのツェラン論を絶望的に難解にしている。つまりそれはさしあたってわたしたち読者の絶望感だ。この絶望感はツェランの詩とデリダの「日付」と「シボレート」の結合の仕方の両方からやってくる。それを列挙してみると絶望感の質がすこし明瞭になるとおもう。

(1) ある「日付」に「パリ」、「マドリッド」、「ペトロポール」のあいだを結ぶツェランの行動の線。
別の「日付」に「ウィーン」と「マドリッド」を結ぶツェランの行動の線。

(2) 公共的な「日付」に回帰できるツェランの「日付」の解釈可能と、どうしても還元できないツェランの特異な私的な「日付」のどちらが、デリダにとってよりおおくユダヤ的と見倣されているか。

(3) 一回性の「日付」とは、生誕のあと特定の日に絶対的にやってくる「割礼」、いいかえれば陰茎の包皮を切開するユダヤ的な儀礼のことだ。

(4) 「われわれはユダヤ人である」という命題と「日付」とは構造的に同型である。

デリダが「日付」の考察からパウル・ツェラン(の詩)を論じはじめた理由は、この(3)と(4)とからはっきりする。ツェランの詩が「日付」をめぐるか「日付」によって私的な、そして公共的な事件をめぐらせるかしているあいだ「日付」の考察は、デリダに特有な言語の文字表記をめぐる哲学的な考察であった。だがデリダはユダヤ的な領域にはいり、ツェラン(の詩)をユダヤ的な秘教にひきいれる。すると「日付」は「われわれはユダヤ人である」や、幼児の「割礼」のイニシエーションと自己同型な世界としてあらわれる。わたしたちはデリダの考察するユダヤ的な領域にはいったとき、これに対応するツェランの言葉を、ふたつとりだすことができる。デリダはツェランの「子午線」というビューヒナー賞受賞のときの講演を詩論としてとりあげて論じているが、わたしたちはもっとわかりやすく、簡潔なツェランをとりだしてみる。

(1) 「超弩級の軍艦が溺死者の額にふれて砕け散らない限り、正義について語っても無駄である」(ツェラン「逆光」)

(2) 「わたしはユダヤ的孤独さとは何なのか、分かったような気がします。そして、さまざまなものの中にあって、ここを通りすぎて行くすべての人に憩いを与える、自分で植えたすべての緑に対するみなさまの感謝の念にみたされた誇りを理解します」(ツェラン「ヘブライ文芸家協会での挨拶」)

デリダによればある絶対的に限定された「日付」にしかおこらないことが、ユダヤ的な儀式として性に苦悩を結合させるフィクションとしての「割礼」なのだ。デリダの言語哲学からは、当然ここからつぎのふたつが帰結してくる。ひとつは詩人はすべてユダヤ人だ(ユダヤ的だ)。もうひとつは言葉によって「割礼」をうけ、言葉によって「割礼」をほどこすものは、すべてユダヤ的(人)だ。どうしてかといえばユダヤ的な儀式の象徴としての「割礼」は、言葉の象徴としての「割礼」と同型だということはデリダの哲学だからだ。デリダによれば有刺鉄線をめぐらせた国境線を横切ってゆくことは、言葉の格子(ツェラン)を横切ってゆくことと同義ということになる。何ひとつじぶんに固有なものをもたないことは、非特性的ではなく、ほんとうは普遍性をもつことだ。これがデリダがこの本の「シボレート」「日付」「割礼」を結びつけるツェランのユダヤ的な特性を、普遍的な詩とみなしている根拠だといっていい。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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シボレート―パウル・ツェランのために / ジャック デリダ
シボレート―パウル・ツェランのために
  • 著者:ジャック デリダ
  • 翻訳:守中 高明,小林 康夫
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • 発売日:1990-03-27
  • ISBN-10:4000026763
  • ISBN-13:978-4000026765
内容紹介:
いまや今世紀最大の詩人と目されるパウル・ツェランも、デリダによるこのユニークなツェラン論によって紹介されるまで、フランスでもほとんど無名に近かった。ツェランの詩集『閾から閾へ』に収められた詩「合言葉(シボレート)」を中心、パリのセーヌ川に身を投じて死んだ、この悲劇的な詩人の作品を、デリダは精細に読み解く。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1990年6月

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