書評
『ウィトゲンシュタイン』(みすず書房)
天才についていくのは大変だ
わたしは小さい頃から伝記が大好きだ。それも偉人伝の類。なにしろ、記憶に残っている最初の本は「浦島太郎」。これを偉人伝に分類するのは若干無理があるが、その次に読んだ、というか母親の助力を得て読解したのは確か「エジソン伝」だったと思う。それから「べーブ・ルース伝」に「野口英世伝」。伝記の王道である。思い出した。「シュヴァイツアー伝」には感動したなあ。もちろん、その頃はシュヴァイツアーの帝国主義的親心への批判があるなどとは知らなかった。中でも特に気にいっているのが天才物。とにかく天才が出てくれば分野は問わない。たぶん、マンガで天才少女音楽家物にぶつかるとそれだけで無条件に感動してしまうのも同じ理由ではないかと思う。自分が天才ではないだけに、天才に憧れちゃうのである。
そういうわけで、音楽の天才があり、絵の天才があり、彫刻やダンスの天才がいて、野球やサッカーや射撃やスリの天才がいる。どの世界にも天才はいるのだ。たぶん、小説の世界にもいるのではないか。よく知らないが。
しかし、あらゆる天才の中でいちばんすごいのは、「思想の天才」とか「論理の天才」とか「哲学の天才」と呼ばれる人たちだと思う。
音楽やダンスの天才を見ても別に悔しいとは思わない。音楽やダンスは特殊な技術だからだ。しかし「思想」や「論理」の天才の場合は違う。同じ言葉を使って、どうしてわれわれとはこんなに違うのか。ほんとに神様は不公平だと思ってしまうのである。
その代表が今世紀を代表する知性、ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタインで、気が滅入った時には時々『ウィトゲンシュタイン1・2』(レイ・モンク著、岡田雅勝訳、みすず書房)をめくり、その度にますます気が滅入ってしまう。
ウィトゲンシュタインは、
「……すべてのタイプ理論は、記号論の適切な理論によって余計なものとなるに違いありません。たとえば私がソクラテスは可死的であるという命題を〈ソクラテス〉、〈可死性〉、そして〈(∃x, y)ε1(x,y)〉に分析しますと〈可死性はソクラテスである〉が無意味であると告げるタイプ理論が必要となります」というようなことを書く。詳しくは、彼の本を読んでください。ただし、心して読むように。彼はあらゆることをどうすれば厳密に書ける、あるいは語れるのかを、徹底的に考える。われわれが、まあなんとなくですましているところを、この人は前人未到の執拗さで追いかけてゆく。それもすごいのだが、この人のすごさは、そういう極度に厳密に考える数学者や哲学者の間でもどんどん孤立していってしまうところなのだ。あまりに厳密すぎて、ほとんどこの世とは縁を切ってしまう。
ウィトゲンシュタインの最初の「先生」となったバートランド・ラッセルはこの弟子の超人的な頭脳にあてられて「ウィトゲンシュタインの反対が理解できないが、彼の反対は正当であるに違いないという思い込みが、ラッセルの自信喪失になっている」状態になってしまった。いや、ラッセルだけではなく彼の周りに集う者は程度の差こそあれ毒気にあてられて自信を喪失したのだ。
徹底した論理性と神秘主義の不思議な両立。強烈な影響力。自らがつくり出した論理の不断の訂正と変更。無類の断定癖。突然の激昂。相手が誰であろうと、頭脳明晰でない人間への嫌悪。その一面で献身的な教師たろうとし、生徒に愛されたこと。おお、これは柄谷行人そのものじゃないですか。
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