書評

『縛られた巨人―南方熊楠の生涯』(新潮社)

  • 2018/01/12
縛られた巨人―南方熊楠の生涯 (新潮文庫) / 神坂 次郎
縛られた巨人―南方熊楠の生涯 (新潮文庫)
  • 著者:神坂 次郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(502ページ)
  • 発売日:1991-12-24
  • ISBN:410120912X

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南方熊楠の人間像に迫る

南方熊楠の生涯を描いたノンフィクションで伝記文学の傑作である。

とにかく熊楠という人物が躍動している。和歌山弁で自在にしゃべり、笑い、嘆き、怒りまくる。痛快そのものであって、読者はいつのまにか熊楠と等身大になって、笑ったり起こったりしていることに気づく。

いまでこそ南方熊楠は、二十世紀日本の誇るべき科学者として、一般に知名度が高いが、一九六〇年代ぐらいまではその人間性や学問の内容が十分理解されていたとはいい難い。幕末の和歌山県に生まれ、子どものころに古本屋の店頭にあった『太平記』五十冊を暗記し、さらに近世の百科事典『和漢三才図会』百五巻を暗記の上、写本をつくったという神童ぶりや、青年時代に渡米し、サーカス一座に属しながら各地を放浪したり、ロンドンの馬小屋のように不潔な下宿から大英博物館に通って民俗学を探究し、彼を侮ってる英国の学者に痛撃を食わせたなどという挿話は、単なる奇行としか見られない傾向があった。

しかし同郷の和歌山県人である著者は、この天才学者の複雑かつ多岐にわたる業績のすべでを実証的に紹介しながら、人間性の奥深いところにまで入りこみ、共感に富む人物像を織りなしている。たとえば熊楠というと激情家で、奔放な行動が連想されるが、じつは内気な、深い孤独の中にいた人であったという。それだけに心の通じ合う友を得た際の喜びは大きく、ロンドン時代の孫文との交流は劇的なものさえ感じられるが、後年は熊楠の経済的な制約により、友情を新たにする機会がなかった。そのときに記した「人の交わりには季節あり」という呻きに胸をうたれない者はあるまい。

熊楠の功績である粘菌(ねんきん)類の研究は、とにかくその意味が把握され難いものだが、本書では生命の原初形態の探求により「無尽の時空」を発見するという熊楠の天才的な意図が納得のいく形でとらえられている。

戦前、ほとんど無名の存在であった熊楠を、高く評価した一人が生物学者としての昭和天皇であった。昭和四年(一九二九)六月一月、天皇の南紀行幸にあたり、熊楠はお召し艦上にて進講、粘菌標本百十種を献上したのである。標本はキャラメルの大箱に入れていったが、そのような飾り気のない爛漫な人柄を天皇は後々までも記憶され、三十三年後の南紀再訪の際には「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と御製を詠まれた。

この出来事は当時横行していた神島の乱伐を中止させ、環境行政の原点となったという意味で重要だが、根底にあるものは熊楠の学者としての良心と情熱であろう。真実探求のためには、いかなる圧力にも屈しない。経済的な利益などは、顧慮するところがない。学間の独創性が衰え、功利的になってしまった現代にあって、熊楠の生き方が無限の示唆を与えてくれるゆえんである。
縛られた巨人―南方熊楠の生涯 (新潮文庫) / 神坂 次郎
縛られた巨人―南方熊楠の生涯 (新潮文庫)
  • 著者:神坂 次郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(502ページ)
  • 発売日:1991-12-24
  • ISBN:410120912X

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初出メディア

産経新聞

産経新聞 2000年12月5日

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