犬も人もそれ以外もみんな悲しかったけれども
平成十六年に『石牟礼道子全集』が編まれることになって、九月にその記念行事が早稲田で行われた。その席で詩人の伊藤比呂美さんが『西南役伝説』(『全集』五巻)について、「戦争の話なのにもかかわらず戦争にいたった歴史的な経緯や戦闘そのものについてはあまり触れられず、最初から最後まで食べることばかり書いてあり激烈におもしろい。どんなことがあっても読んだ方がよい。読まなかったら殴る」と仰られた。といってひとつ嘘があるのは、読まなかったら殴る、というくだりで伊藤さんはそんなことは仰らなかった。そう書いた方がおもしろいかな、と思い、つい書いてしまった。申し訳ないことだ。けれどもそれくらいの勢いで仰られたのが強く印象に残っている。それでその後、『西南役伝説』を読んで、どう思ったかというと、「そんな食のことばかり書いてある訳ではないな」と思った。そして同じ頃に『春の城』を読んで、「むしろ、おまえ、こっちの方が食のことに言及している部分、多いやんけじゃん」と思ったのだった。
島原の乱。については子供の頃に子供向けに書かれた歴史読み物みたいなので繰り返し読んで朧に記憶に残っていた。天草四郎時貞という名前は、それ以降も映画や芝居、その他いろんな趣向に出てきて忘れないし、鉄砲の名人・下げ針の金作、なんて名前も記憶に残っていた。後は名前は忘れたけれども隠密的な役割をする百姓身分の人がいて、この人が水に潜るなどいろんなことをして活躍をする、血湧き肉躍る戦記物であったように思う。
そしてそこで強調されていたのは、人間性が麻痺したような極悪な権力者に信教の自由を求めて立ち向かう民衆、という枠組みで、確かに、戦術としての干し殺し・兵糧攻めについては語られるが、その民衆がなにを食し、どんな家に住み、どんな服を着ていたかについては殆ど描かれていなかったように思う。
なぜだろう、と考えて思うのは、やはりそれらを中心に据えると戦記としてあまり盛り上がらないからで、弓矢で撃ち合って、ぐわあっ、となって目玉が落ちた、みたいなことは書いても読んでも興奮するが、ひじきは酒と砂糖と醤油で妙りつけたらうまいかも、みたいなものは日常的すぎてあまり盛り上がらない。
だから盛り上げるためにはなるべく戦闘の光景を多く書くとよいのだけれども、それだけでは駄目で、なぜなら人間は意味なくただただ戦うということがなかなかできなくて、戦うにはやはりそれ相応の理由、というか思想のようなものを必要とする。
例えば昔、「仮面ライダー」という漫画があった。仮面ライダーは実は本郷猛という人でこの人はショッカーという集団と戦うのだが、なぜ戦うかというとショッカーが、悪の組織・地獄の軍団であるからである。そんなものを許しておいたら地球というものが大変なことになってしまうし、そんな悪は思想として間違っている。だから破邪顕正、本郷猛は戦うのであり、ついでに言うと、その戦いの途中で本郷猛が海苔弁当を買ったか鮭弁当を買ったかなんていうのはまったくもってどうでもよい。
と言うと、そんなものは漫画じゃないか、現実とはかけ離れたことだ、なんてくだを巻く人があるかも知れない。よろしい。では現実の話をしよう。私が二十歳かそれくらいの頃、前方から歩いてきた人に、「なに、メンチ切っとんじゃこら」と言われ殴打されるということがしばしばあったがこれは他のメンチ切る、すなわち眼を凝と見る、ということは道義に反することだ、という思想に基づいてなされる暴力であった。もちろんそのとき私はメンチを切っておらず、これを称して因縁を付ける、というのだけれども、意味不明な武力の行使に大義名分を与え、首尾一貫した論理の道筋をつけるという意味でこれはまさに因縁の作成であった。
って私はなにを語っているのだろうか。そう、戦いを描くに当たってはどちらが善でどちらが悪か、どちらが普遍的か、ということはさておくとしても思想の衝突が不可欠であり、そこで衣食の話を詳細に書いても盛り上がらないから普通はあまり書かない、ということである。
しかるに、この『春の城』においては詳細に書かれていて、ということは右(事務局注:上)に私が構築した戦記物理論でいうとあまり盛り上がらないはずである。にもかかわらず、普通以上に盛り上がるというか、読むと精神がクルクルになって、けっこうなおっさんであるのにも関わらず娘のように涙ぐんだり、いやさ号泣したり、或いはむっつり考え込んで、周囲から見るとまるで無能力者のように成り果ててしまったりするのはなぜか。
まずそういうことをこの場でライブで考えたいと思うのだけれども、それでインタビュアーだったらまず作者に聞くのは、「なぜ、読者が喜ぶ戦闘シーンやお家騒動や権力闘争を中心に据えないで調理法や家の建て方、作物の栽培などに力を傾けたのか」ということだけれども、私もときどき小説を書くので、これに対しては作者に変わって真実を述べることができる。それはそう、「書きたかったから」。けれども、真率なその気持ちを述べてもインタビュアーは、「ええええ、そんなー、またまたあー」みたいな顔をして信じてくれず、「まあ、そういう冗談はさておき実際のところはどうなのですか。どのような深慮遠謀があったのですか」と間うてくるに決まっているから、ここでも、もう少し考える必要がある。
(次ページに続く)