書評
『楽園を求めた男―私立探偵カルバイヨ』(東京創元社)
珍しいスペインの現代小説が翻訳された。この分野の翻訳は意外なほど少なく、二年ほど前にスペイン人が創業した西和書林が、ラモン・センデールの『嵐のマドリード』以下、これまでに数冊の作品を紹介したにとどまる。しかし、それらは商業ベースに乗るものとは言いがたく、ほとんど文化事業と呼ぶ方がふさわしいだろう。意欲的な仕事だけに、マスコミや識者のバックアップが望まれるところだ。
しかしここに東京創元社が、看板シリーズの創元推理文庫の一冊として出版した『楽園を求めた男』は、そうした地味な作品とはちょっと違う。これはなんと、スペイン製のハードボイルド・ミステリなのである。わが国で初めて紹介される、スペイン作家の手になる推理小説として、これ以上の作品は望めないといっても恐らく過言ではあるまい。
バルセロナの私立探偵ペペ・カルバイヨは、実業家カルロス・ストゥアルトの妻ミリアムから、死んだ夫の犯人探しを依頼される。カルロスは市の外れの空き地で、死体となって発見されたが、見つかるまでの一年間、行方不明になっていたのだ。ミリアムは夫が一年の間どこで何をしていたのか、犯人探しよりもその方を知りたがる。手掛かりは、死体が持っていた紙切れに書かれた詩の一節、「もはやだれもわたしを南へと連れてはいかないだろう」という文句だけである。
このような事件の始まり方とそれ以降の物語の展開は、ハメット以下の正統ハードボイルド派のスタイルをきちんと踏まえている。カルバイヨは単なるタフガイではなく、非常に陰影と起伏に富んだシニカルな男として描かれている。男っぽさを決して売り物にせず、しかも既成のモラルに縛られない独立独歩の生き方は、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの衣鉢を継ぐ資格が十分にあると見た。
カルバイヨは型どおり事件を解決しはするが、それは小説として起承転結をつけるためであって、作者にとっての関心事は別にあるように見える。つまり作者は、フランコ以後の現代スペインをさまざまな角度から切り取り、病める社会を万華鏡をのぞくように読者の眼前に呈示しようとする。現代スペインの社会状況、政治状況が、華麗なレトリックによって浮き彫りにされ、大都市バルセロナの持つどろどろしたエネルギーが、行間から横溢する。これはまぎれもなく、推理小説の形を借りたスペイン「現在史」なのである。
このあたりの色彩はアメリカのネオ・ハードボイルドと趣を異にし、子供っぽい男らしさの証明やロマンチックな友情の代わりに、よりハードな社会的視野に裏打ちされた、現代のドン・キホーテの物語が展開される。事件の本筋よりも、売春婦であり情婦であるチャロとの交情や、助手のゼスクテールとの料理談義、行きずりに飛び込む推理小説のシンポジウムのやりとりなど、脇道にそれた部分が非常におもしろい。このように、随所にちりばめられたエピソードが、モザイク模様を描きながら一つの小説世界に織り上げられていくさまは、さすがにフランス推理小説大賞受賞作らしい読み応えがある。
一般の読書人はもちろん、スペイン通をもって任ずる人も、本書には少なからずカルチャーショックを受けるに違いない。訳者の奮闘ぶりも見逃せない労作である。
【この書評が収録されている書籍】
しかしここに東京創元社が、看板シリーズの創元推理文庫の一冊として出版した『楽園を求めた男』は、そうした地味な作品とはちょっと違う。これはなんと、スペイン製のハードボイルド・ミステリなのである。わが国で初めて紹介される、スペイン作家の手になる推理小説として、これ以上の作品は望めないといっても恐らく過言ではあるまい。
バルセロナの私立探偵ペペ・カルバイヨは、実業家カルロス・ストゥアルトの妻ミリアムから、死んだ夫の犯人探しを依頼される。カルロスは市の外れの空き地で、死体となって発見されたが、見つかるまでの一年間、行方不明になっていたのだ。ミリアムは夫が一年の間どこで何をしていたのか、犯人探しよりもその方を知りたがる。手掛かりは、死体が持っていた紙切れに書かれた詩の一節、「もはやだれもわたしを南へと連れてはいかないだろう」という文句だけである。
このような事件の始まり方とそれ以降の物語の展開は、ハメット以下の正統ハードボイルド派のスタイルをきちんと踏まえている。カルバイヨは単なるタフガイではなく、非常に陰影と起伏に富んだシニカルな男として描かれている。男っぽさを決して売り物にせず、しかも既成のモラルに縛られない独立独歩の生き方は、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの衣鉢を継ぐ資格が十分にあると見た。
カルバイヨは型どおり事件を解決しはするが、それは小説として起承転結をつけるためであって、作者にとっての関心事は別にあるように見える。つまり作者は、フランコ以後の現代スペインをさまざまな角度から切り取り、病める社会を万華鏡をのぞくように読者の眼前に呈示しようとする。現代スペインの社会状況、政治状況が、華麗なレトリックによって浮き彫りにされ、大都市バルセロナの持つどろどろしたエネルギーが、行間から横溢する。これはまぎれもなく、推理小説の形を借りたスペイン「現在史」なのである。
このあたりの色彩はアメリカのネオ・ハードボイルドと趣を異にし、子供っぽい男らしさの証明やロマンチックな友情の代わりに、よりハードな社会的視野に裏打ちされた、現代のドン・キホーテの物語が展開される。事件の本筋よりも、売春婦であり情婦であるチャロとの交情や、助手のゼスクテールとの料理談義、行きずりに飛び込む推理小説のシンポジウムのやりとりなど、脇道にそれた部分が非常におもしろい。このように、随所にちりばめられたエピソードが、モザイク模様を描きながら一つの小説世界に織り上げられていくさまは、さすがにフランス推理小説大賞受賞作らしい読み応えがある。
一般の読書人はもちろん、スペイン通をもって任ずる人も、本書には少なからずカルチャーショックを受けるに違いない。訳者の奮闘ぶりも見逃せない労作である。
【この書評が収録されている書籍】
週刊東洋経済 1985年9月21日
1895(明治28)年創刊の総合経済誌
マクロ経済、企業・産業物から、医療・介護・教育など身近な分野まで超深掘り。複雑な現代社会の構造を見える化し、日本経済の舵取りを担う方の判断材料を提供します。40ページ超の特集をメインに著名執筆陣による固定欄、ニュース、企業リポートなど役立つ情報が満載です。
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