書評
『帰る家もなく』(ボーダーインク)
出会いのなかに帰る家が
しんみりしたあとは、ほがらかに。明るく振る舞ったあとは少し真面目に。まっすぐいきすぎたあとは、ユーモアと笑いをまじえて、頁(ページ)をやわらかく整える。最後にやってくるのは、なんとも言えない幸福感だ。著者の両親はともに沖縄の出身である。父親は首里の旧家に、母親は医者の家に生まれ育った。医師である母方の祖父は台北で病院を経営しており、大正期から終戦直後まで台湾にいた。その妻、つまり祖母は女優として、一時、松井須磨子とおなじ舞台に立っていたこともある。彼らの物語は、琉球、台湾の歴史を重ね合わせた旧著『美麗島まで』に詳しいけれど、本書にはその後に展開された個人史と、当時はつかみ切れていなかった感情が、少しずつ角度をずらしながらとらえられている。
昭和十年代の半ば、放送関係の仕事を得て先に東京に出ていた母親は、役人だった四つ年上の恋人の心を動かした。旧家の重荷を捨ててあとを追ってきた彼と結婚するのは、真珠湾攻撃のあった年の春である。片足が不自由で、徴兵検査には合格しなかった彼が、そのまま沖縄に残って仕事を続けていたらどうなっていたか、語るまでもない。
若い夫婦が落ち着いたのは、妻の叔父で画家の南風原(はえばる)朝光(ちょうこう)がアトリエを構えていた「池袋モンパルナス」の一角である。叔父を中心とする人脈に身を置いて、夫婦は五人の子をもうける。著者は昭和三十三年生まれ。兄が二人、姉が二人いる。にぎやかに見えるけれど、『帰る家もなく』という書名に呼応するさみしさは、早い時期に形をなしていた。
父親は都庁の役人となったが、暮らし向きは楽ではない。母親は病弱だった。著者は、生まれて一年ほど経ったころ、クリスチャンだった母親のつてで乳児院に預けられ、そこで五歳近くまで過ごしている。また、十歳の春から半年のあいだ、健康のために、環境のよい房総の養護学園に入っていた。彼女には、この施設でさみしい思いをしていた、という記憶があった。
ところが、あるきっかけで、彼女は三十七年ぶりにその施設を訪ね、むかしと変わらぬ教室や図書室、残されていた当時の写真や文集に触れ、失われていた日々をはっきりと思い出す。そして、自分が「幸福だった」ことを発見するのだ。このささやかな過去探訪を語る、「スリーイー」と題された冒頭の一篇には、海辺とは思えないやわらかな光が溢れている。
母親は著者が十二歳のときに亡くなる。五年後には、父親も亡くなった。二人のルーツである沖縄を訪ね、さらに台湾へと著者が足を延ばすようになるのはそれ以後のことだ。物書きになってからも、両親の見えない力が彼女を導く。目の前に現れるのは、国や制度の境目を越えていく人々だ。誰かを介して誰かに会い、会った人に魅了され、自分を魅了したその人を魅了する。親しい仕事仲間や友人たちはもちろん、書かれた言葉でしか知らない過去の人物に対しても、彼女のまわりではなぜかおなじ現象が起きる。
大阪の串カツ屋で出会ったおじさんの話が印象的だ。家出をしたという。家族はいるのかと尋ねると、彼はこう答えた。「家族がおるから家出というんや。独り者やったら、ただのお出かけ、やろ」。ならば一人暮らしの者に家出は許されないのか。そんなことはない。著者はこの「家」をもっと大きなものに、自分だけでなく他者にも「幸福だった」記憶をよみがえらせる言葉の器に変えていくのだ。帰る家はある。出会いのなかに、かならずある。
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