書評
『消尽したもの』(白水社)
それぞれ固有の足音
ベケットがテレビ用に書き下ろした作品に見られる特質を、ドゥルーズが分析する底深い闇のような書物。原題に採られた「エピュイゼ」という単語は極度に疲労した状態をあらわす日常的なフランス語だが、そこには井戸や鉱山の立坑を意味する「ピュイ」が含まれており、文字どおり垂直にのびる空間から、汲み尽くせるものをすべて汲み尽くすというイメージを押しつけてくる。言葉を汲み尽くし、テクストをどんどん削ぎ落としていったべケットの作品全体を形容する一語としても、これはみごとなまでに有効だ。しかし「疲労」と「消尽」の差異は、疲れの程度に返されるべきものではない。ドゥルーズのべケット論は、連続しているように見えながら、あるところで決定的な境界線が引かれているこのふたつの概念の区別から説き起こされる。「疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは、もはや何も可能にすることができない」のだ、と。言語はある出来事の実現にそなえて、可能なことを言表する。仕事が終わったから、テレビを観よう。だが仕事を終えてもテレビをつけずに本を読むかもしれないし、買い物に出るかもしれない。選択と目的と欲求が多様に変化し、それに応じて状況は変化する。なにかが可能になるのは、べつのなにかを排除するからなのだ。「疲労」は、この排他的なプロセスを経て生まれる状態であり、逆に「消尽」は、そうした欲求や選択や目的や意味をすべて破棄したところに染みだしてくる。可能性の列挙が命題にとって代わるのだ。ベケットの登場人物が、さまざまな「順列組み合わせ」に走るのは、彼らが消尽した状態にあるからこそなのである。
かくてドゥルーズは、「消尽」にいたるまでのべケットの言語を三段階に分類する。まずは数えあげる名詞の言語。そのメタ・レヴェルに位置する、名詞ではなく声の、ひとりの他者が発する声の、流れの言語。そして最後に、言葉と声をイメージに結びつけ、「たえまなく移動する内在的限界に、間隙、穴、または亀裂に、言語活動を結びつける」言語。三つ目のこの言語は、イメージだけではなく、空間とも連動している。限定されていながらつねに任意であり、なんらかの事件の実現を可能にするというかぎりにおいて、空間は潜在性に満ちている。ベケットの登場人物、ことに芝居の人物たちは、この潜在性をつぎつぎに汲み尽くしていく。ドゥルーズに従うなら、舞台を通過し、テレビ作品にいたって、ベケットの言語の究極の特質が顕現することになる。
しかしテレビほど沈黙にふつりあいな空間はない。受像機の周辺には絶えずなにがしかの音が流れていなければならず、音響的なノイズ音は消えることがない。ところが奇妙なことに、ベケットのテレビ作品には、まぎれもないこのノイズがさらに深化して、均一に塗り込められているかに見えるのだ。たとえばひとつの正方形の四辺とその対角線を、けっしてぶつかることなく移動する四人の俳優たちの「それぞれ固有の足音」(『クワッド』)に似た、ざわめく沈黙。あるいは「さらに終わるために」わきあがる沈黙。その裏には、激しい衰退のエネルギーが充溢している。容量を超過したそのエネルギーが炸裂し、白い閃光が走ったとき、ベケットの言葉はドゥルーズの思考と交錯する。口をつぐむのに必要な熱量を教えてくれるのは、いうまでもなくべケットの方だ。衰退を逆手にとる力は、もとより彼の側にある。だがドゥルーズの、おそらくは饒舌といっても差し支えない資質が、ベケットの全存在をかけた箝口令のもとに敷かれるとき、ふたりは途方もない「消尽」のさなかで向きあう鏡像となる。本書がドゥルーズの作品ではなく、あくまでベケットとの「共著」でしかありえないのは、そういう事情からだ。
【この書評が収録されている書籍】
図書新聞 1994年6月11日
週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。
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