書評

『フーコー』(河出書房新社)

  • 2017/09/21
フーコー / ジル・ドゥルーズ
フーコー
  • 著者:ジル・ドゥルーズ
  • 翻訳:宇野 邦一
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2007-08-01
  • ISBN-10:4309462944
  • ISBN-13:978-4309462943
内容紹介:
ドゥルーズが盟友への敬愛をこめてまとめたフーコー論の決定版。「知」「権力」「主体化」を指標に、フーコーの軌跡と核心を精緻に読み解きながら、「外」「襞」「線」などドゥルーズ自身の哲学のエッセンスをあざやかにあかす。二十世紀、最も重要な二つの哲学の出会いから生まれた思考のドラマをしるす比類なき名著。
ジル・ドゥルーズのこのフーコー論は刺激的だ。その意味は読んでいると、じぶんもまたフーコーをじぶんなりに論じてみたいとか、この本で作図されたフーコーは正確かどうか、じぶんで読んで確かめてみたいといった気持を強いられるということだ。それというのは著者ドゥルーズがフーコー以上にフーコーをよく読み、論理がたどってゆく通路のゆきどまりのあたりでは、フーコーであるのかドゥルーズ自身であるのかわからなくなるほど、フーコー=ドゥルーズあるいは論ずる自己=論じられる対象が一体となっているからだ。対象を論ずることが自己展開と区別できない通路が出来あがり、整備されたところで主調音はおわる。そして主調音がおわったところで、またフーコーという対象が異なった局面を運んできて、その対象がドゥルーズにとって自己対象化になってしまうまで、論理が展開され、このことが何遍も最後まで繰返される。一個の協奏曲が、ひとつのおなじ主部を、いくつも繰返して反復し、反復を媒体するものは、フーコーの異なった著書の異なった性格だというよりも、おなじ主部を反復するためにだけ、フーコーの著書は引きあいに出されている。モチーフはフーコー=ドゥルーズあるいは論じられたフーコーと論ずるドゥルーズの同一性の実現と反復であり、それがこの協奏曲の主調音なのだといっていい。

この主調音のキイ・ワードは「言表」(エノンセ・énoncé)という概念であり、著者はこのキイ・ワードを同時にフーコーの方法的な理念の入口だとかんがえている。ある文書(としての本)が、歳月のあいだに積もって古くなっていったとき、そのなかで古くならない部分はあるだろうか、あるとすれば何だろうか。文献学者(古文書学者)は、本の紙質、活字の形態と刷り方からはじまって、文の意味、命題は何か、といったことまで、あらゆる角度から解明しようと試みるだろう。緻密で深くて、実証的で、妥当な解釈に充ちていればいるほど、よい解明にちがいない。だがほんとはひとつの古文書(として)本を位置づけ、解明することは、そんな作業ではない。ただ何が言表されているかだけが、古くならないし、それが古文書(としての本)の意義なのだ、あとはいらない。そう考えた古文書学者(知の考古学的な累積層として本を読む人)がフーコーなのだと、この本の著者ドゥルーズは言っている。

言表は文そのものともちがうし、命題ともちがう。非人称を主語として、独創もいらないし、非凡もいらない。時代がいつで、どうあろうと関わりなく、そこに述べられていることというトポロジカルな地層だけが必要なのだ。言表は文そのもののように、始まりと終りを指定しない。意味を指示することはするが、その指示の仕方は夢とおなじで、つづまりがなくてもよい。「ホテル・リッツと同じくらい大きなダイヤモンド」というのをフィッツジェラルドの作品のなかのひとつの言表だとすれば、これは文としての虚構であるとか、命題として矛盾であるとかいうことはどうでもよくて、作品のなかで作者の言表の集合や、言表と言表との連結によってできた世界が、喩としての統一性をもってさえいればいいのだということになる。

ドゥルーズがフーコーの基礎作業のキイ・ワードとしてもちだした言表という概念は、直観的には判りやすいが、論理的な意味づけは難しい。だがこの言表の性格が何をもたらしたかは、明瞭だ。それは認識の秩序をピラミッド的な形態から地層的な形態に変更してしまうことだ。ひとつの言表は他の言表とおなじ空間をつくり、その近傍に言表が喚起した対象や、言表によって誘致された非人称の主体や、概念がまた別の相関的な空間をつくる。これは繰返し形成され、地層になって重なってゆく空間である。

ドゥルーズは、フーコーにはもうひとつ言表とおなじように、見ること、可視性、その視線におおきな場所を与えている特徴があると指摘している。精神病院や監獄のなかに装備されているじぶんは見られることなく病者や留置者を〈見る〉という装置、またロシアの地下運動者が編み出したような、じぶんは言表空間の外にあって、言表しうる匿名の(反)権力の装置、これらを病態とする可視的な機能空間の連なりを想定することができる。監獄、工場、兵舎、学校、病院など、いってみればこの社会の全部の局所、局所で、この〈見る〉という機能の空間的な分布の秩序は、「ダイアグラム」を作っている。これは言表がつくる空間の地層とまったく別な、けれどよく対応した地図を形成している。そして言表の地層とおなじように、この「ダイアグラム」の地図は、流動し、不安定に形状を変化させながら、いつも社会体の次期の姿を追い越してゆく。

フーコーはこの言表がつくってゆく地層的な空間の秩序と、可視的なものがつくってゆく「ダイアグラム」の地図とは、たえず一方から他方へ、また他方から一方へと移動するとかんがえている。ただこのふたつを統合するような共通性はないし、ふたつが一致したり一対一で対応することもない。このふたつには遥か遠くの「外」から横断的な力が作用して、このふたつにじぶんたちを行動させる(権力にさせる)ような可能性を与える。だから知のふたつの形態と秩序である言表空間のつくる地層と〈見る〉ことがつくる「ダイアグラム」の地図とが、相関しながら作用することなしに権力が生みだされることはない。また権力が作動している場所があるとすれば、そこには必ずふたつのこの知の形態が存在している。フーコーがいう権力の概念は、国家権力がピラミッドの頂点にあり、その下の社会体はすみずみまでその権力が力線を描いているというモデルとはまったくちがって、いわば地層と地図の横断する結合によって、線分として、ある曲率をもった曲面として、碁盤状に分割されたり、分散されたりするものを指している。また、知はそれが言表であっても視覚的であっても、ここでいう権力が介在しなくてはポテンシャルをもつことができない。ドゥルーズのいうところによれば「知は、力の関係が中断されるところにだけ現われると信じるのは、誤謬、偽善である」ということになる。

ところでわたしたちは、言表空間の地層構造からできたアレンジメントと〈見る〉ことの図形からできたダイアグラムのあいだの移動と、それらふたつを横断する力線というイメージにまでフーコーを約分し、整序していったドゥルーズが、フーコーの理念をほとんど自分の理念のすぐ傍まで引き寄せているという感じをうける。監獄機械、学校機械、病院機械、ドゥルーズ機械、フーコー機械、これらの機械の権力の関係と任意の連結作用についていうとすれば、アレンジメントは具体的な機械化の装置に対応し、ダイアグラムは、統御し、順序づける「装置の装置」に対応し、いわばドゥルーズ機械とフーコー機械とは連動しはじめることになるだろうということだ。

そこで、この本では何が起っているのだろうか。まずフーコーの理念が、秘されたフーコー自身の無意識に触れる場所が、探りだされているとおもう。フーコーが「私は話す」ではなく「非人称が話す」の方が先行しているとかんがえるとき、あるいは「誰かが話す」というざわめきの匿名性が先行するとかんがえるとき、フーコーは〈死〉または〈母〉に言表を還元したいという願望の所在を語っているのだ。もっと微細な言表の場所がかんがえられる。ひとつの言表が、可能でないから可能であるに変わる瞬間を成り立たせているのは、ただそこに「言語がある」、「言語の存在」、羽毛のように微かで軽い言語-存在が、無意識の地層から姿を現わした瞬間であるとおもえる。もちろんフーコー自身はそうは言っていない。言語が「外」からやってきた外部性だというように、言語に歴史的な性格を与えることになっている。

ドゥルーズはフーコーの可視性、〈見る〉ということのダイアグラムもまた、言表についてとおなじことが、成り立っていると述べている。〈見る〉ことのダイアグラムが可能でないから可能性へと変貌する瞬間は、「光がある」、「光の存在」あるいは微かな光-存在が、無明の場所から存在を現わした瞬間なのだ。この光-存在は物理的な環境のことを意味していない。存在論的な存在なのだ。ドゥルーズのいい方をすれば、フーコーはこのばあい「ニュートンよりもゲーテに近い」と考えられている。ゲーテの色彩論のように光が存在論と不可分の認識におかれているのはフーコーが、「光-ない」の場所を無意識の層においているからだと、わたしにはおもえる。ドゥルーズはここでも、そうは考えずにフーコーの可視性を歴史的な認識の方に位置づける。

歴史的な認識に位置づけられた言表および可視的なものが、即座に直接に可能でないのは、その位置でこのふたつが外部性の形態のなかに分布しうるからだ。そうすると言語は、語、文、命題を包含できるが、分布している言表を含むことはできない。おなじように光-存在は物体を含むことができるが分布された可視性を含むことができない。ここはドゥルーズがフーコーの方法と理念に、この本で与えている賞讃に認識論的ないい廻しを与えた個所に当っている。ドゥルーズによればフーコーの「言表は言語学的な範疇ではない。また」フーコーの施療的な監禁の病院や監視つきの監獄は、刑罰や狂人の監収所のことではなく、可視的なものの外部性が分布された場所のことを意味している。いいかえればフーコーは、監禁を主題として固執したわけではなく、可視的なものの外部性の場所を論じているのだ。

ドゥルーズは、この本で権力についてのフーコーの偉大な理論は、三つに展開されると言っている。ひとつは、権力は本質的に抑圧的なものではなく、煽動したり喚起したり生産したりするものだ。ようするに奔騰ではあっても、沈潜しないし、させないものだ。第二に、権力は所有される以前に流動しているもので、限定された形態(例えば国家とか階級とか)に出遇わなければ所有されることはない。第三に権力は被支配者も支配者も、おなじように貫通する。

この三つの規定のどこが偉大なのだろうか。それはわたしたちが知らずしらずのうちに、生体と社会体の近くで実感する抑圧と、制度のうえの社会体や国家のような上部とを直かに結びつけてしまうことで作りあげた権力の像を、それは虚像だと言った、最初の人物のたぶん最初の言葉が、このドゥルーズの三つの要約のなかに含まれているからだ。それこそがフーコーの偉大さであるといえよう。権力は視えない言表の地層的なものと〈見る〉ことの地図的な拡がりのふたつを、横断しながら流動しているものを指している。それが「外」との場所からやってくるとみなされたときに、力の線分のつながりになってゆく。そのときに権力が生まれる。これがドゥルーズによってドゥルーズの理念に引き寄せられ、約分されたときに現われたフーコーの権力の理念である。ドゥルーズは、この本でほとんど完全に、フーコーのなかに自分の理念と力量を感性的に移入しつくしているようにみえる。これはやはり偉大な批評の本だというべきかも知れない。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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フーコー / ジル・ドゥルーズ
フーコー
  • 著者:ジル・ドゥルーズ
  • 翻訳:宇野 邦一
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2007-08-01
  • ISBN-10:4309462944
  • ISBN-13:978-4309462943
内容紹介:
ドゥルーズが盟友への敬愛をこめてまとめたフーコー論の決定版。「知」「権力」「主体化」を指標に、フーコーの軌跡と核心を精緻に読み解きながら、「外」「襞」「線」などドゥルーズ自身の哲学のエッセンスをあざやかにあかす。二十世紀、最も重要な二つの哲学の出会いから生まれた思考のドラマをしるす比類なき名著。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1988年1月

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