書評
『ケータイ・ストーリーズ』(新潮社)
夢と現が絶え間なく反転
昔から、痴人夢を説く、なんてなことを言うように、夢のように辻褄(つじつま)が合わず合理的でない話をするのは愚か者であると相場が決まっている。だから小説を書く場合でも、一応は合理的な説明のつくような世界を設定して、そのなかで人物が状況が動くようにする。
夢と現(うつつ)の間に、一応の境界線を引いておく。そうしないと愚か者の書いた訳の分からぬ話と断ぜられ、誰の心にも響かぬからである。
しかるにこの、携帯電話の画面で読める文字数を意識して書かれた、「ケータイ・ストーリーズ」において、そのような境界は最初から完全にとり払われている。
夢がなんの説明もなしに現に侵入する。かと思えば、次の瞬間には現が夢に侵入し、夢と現、現実と幻想が絶え間なく反転する。
そればかりではなく、自分と他人が容易に入れ替わり、どこまでが自分の話でどこまでが他人の話か分からなくなる。内と外、意味と無意味、歌と言葉、人間と動物、人間とモノがめまぐるしく反転する。
ときに交錯し、また、ときに絶妙の距離を保ちながら進行する夢と現は結末において鮮やかに合致したり、衝突の挙げ句、宇宙の彼方にぶっ飛んでいったりし、桂枝雀師が解説した落語におけるサゲの四分類を想起したりした。
そしてなぜときに小説がそんな面倒なことをするのかというと、それはなにかと不自由なこの現に対して人間としての自由な魂を持っていたいからで、この携帯できる、もうひとつの現実、もうひとつの夢は、我々が生きる現実に対して確実に力を持っていると思った。読み終わった後、周囲の景色はそのままなのに、自分のふる舞いが変わってしまっているように感じた。他人になったような気がした。柴田元幸訳。
ALL REVIEWSをフォローする



































