「国民国家」刷り込んだ装置
もう10年ほど前のことだが、アイルランドの小さな村で、日本の唱歌を村人たちと一緒に歌う機会があった。アイルランド一周の詩の朗読会に招かれたときのことだ。打ち上げのパーティーで、日本の唱歌の話をした。日本の近代初めの小学校の音楽教育では、アイルランド民謡をメロディーにした歌が作られ、現在も子どもたちは歌っている。そんな話をすると、じゃあ一緒に歌おう、ということになったのだ。最初に日本から参加した数人で「庭の干草」を歌った。この歌はアイルランド民謡「夏の名残のバラ」をメロディーにしている。村人たちは英語で歌い、わたしたちは日本語で歌った。その次に「蛍の光」を歌った。うっかりしていたのだが、この歌はスコットランド民謡「オールド・ラング・ザイン」をメロディーにしている。彼らは歌い終わった後、口々に「これはスコットランドだ、嫌だな」と言った。スコットランドとアイルランドは同じケルト民族の血でつなかっているが、スコットランドは現在もイギリス連邦下にあり、イギリスから長く植民地として抑圧を受けてきたアイルランド人にとっては、敵対的な感情が強く残っている。
というようなことを経験して以降、明治期から大正期にかけて文部省が制定した小学生用の唱歌には、日本語の歌詞もそうだが、メロディーにも、複雑な政治状況が背後にあり、たんに昔の歌ではないのだ、ということを知った。
いまや第二の国歌とも言われるようになった唱歌「故郷(ふるさと)」は、「兎(うさぎ)追いしかの山/小鮒(こぶな)釣りしかの川」と始まるが、よく考えるとこれは中年の男の歌であって、故郷に帰りたくても帰れない、望郷の思いを歌いあげたものだと、本書で中西光雄は言う。立身出世を夢見て故郷を出たが、誰もが成功するわけではない。多くは都会に住んでサラリーマンとして過ごす。そういう故郷を喪失した都市生活者を生み出したのが大正期であった。その時期に唱歌「故郷」は誕生している。だから、反作用のように、理想郷としての「故郷」が描かれた。しかも学校で歌われ続けることによって、故郷という「国民共通の心性」が形づくられた。それは郷土愛が愛国心(パトリオティズム)につながっていく道筋を作り、日本近代が「国民国家」というイメージを作り上げるための装置として、きわめて優秀な機能を柤ったのである。
唱歌には、どの地方の出身者でも歌える、ということが求められた。だから「故郷」の歌詞には地名がない。それは「国民としての同一性を刷り込むためのメディアないし装置として唱歌が機能した」からだと山室信一は言う。
「蛍の光」の初期の歌詞には、いまは歌われていない3番と4番の歌詞があった。特に4番は「千島のおくも おきなわも/やしまのうちの まもりなり」と歌われた。唱歌には珍しくあえて地名が入っている。明治期の大日本帝国に沖縄と北千島という領土が編入されたとき、それを「やしま(日本)のうち」と呼ぶことで、国家の輪郭を国民に意識させようとしたのである。
後に台湾や朝鮮や満州や中国でも、その土地の言葉に翻訳されて日本の唱歌は歌われた。そこには植民地の人間に日本人が強要しただけではない側面もあったと山室氏は言う。「唱歌を容器として、そこに自らの想いや思想を自国語で歌詞をつけ、それによって自立性を保とうとした人々が少なくなかった」のだと。歌わせる側と歌う側と、そのどちらの側面から読み取っても、唱歌という「歌の力」が持つ「なつかしさとあやうさ」は、今後もさまざまな角度から究明していく必要がありそうだ。