書評
『キメラ―満洲国の肖像』(中央公論新社)
”理想国家”かく瓦解せり
満州国とは何であったのか。それは傀儡(かいらい)国家だったのか。それとも理想国家だったのか。今なお論争を呼び評価のゆれる「きわめて人為性の色彩の濃い国家」について、著者は国家形成の過程や理念と実態の検討を通して、考察を進める。著者のキータームは、書名のキメラに集約される。ではキメラとはいったい何か。著者は、頭が獅子(関東軍)、胴が羊(天皇制国家)、尾が龍(中国皇帝及び近代中国)という怪物キメラを、満州国の肖像に想定する。タコツボ的論文や感傷的回想の多い領域において、それらを前提にしながら資料を読み直し、いかにして全体像を描き出すか。これはよほどの思いきりと工夫がなければできないことである。著者はあえて満州国をキメラに比することによって、議論の拡散を防ぎ国家全体のイメージを明らかにしながら、論争点の整理を試みる。その結果は、理想国家論に厳しい結論となった。無論、著者は無批判に傀儡国家論にくみするものではない。むしろ、橘樸(たちばなしらき)の「王道」や満州青年同盟の「民族協和」などの建国理念を、その到達点において捉えそれに殉じた人が少なくなかったことを真正面から認める。にもかかわらず、初発の建国の理念がそれ自体矛盾をはらみながら変遷し、実態においていかに裏切られたかを、客観的に跡づけるのだ。
ここにはまた満州国統治における日本人の「善意」という問題が関連してくる。だが、いかに主観的に「善意」であろうとも、結果が悪政だったならば、評価は自ずと定まることになろう。しかも仮に善政だったとしても、一方的に押しつけられ指導される側の気持ちに対する配慮はない。そこに著者は、マッカーサー司令部が占領改革に抱いたのと同様のパターナリズム(家長主義)を見出すのである。
とまれ日本は、二十世紀前半において満州国という多民族社会形成の試みに失敗した。今迫られている国際化に対して、はたして自民族中心主義をこえた対応ができるであろうか。満州国の歴史的遺産は、ずしりと重い。
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