戦争に切り裂かれたダバオ移民の悲劇
大正6年、評者の祖父は19歳で独り長崎から出航、フィリピンはミンダナオ島のダバオに向かった。「自由契約移民」としてバナナ農園で働くためにである。ダバオは軍用ロープの材料となるマニラ麻の名産地で、日本人街が出来るほど邦人が渡り住み、地元経済を牛耳っていた。ただし小柄な祖父には木に登りバナナをもぐ作業はきつく、翌年には這々(ほうほう)の体(てい)で日本に舞い戻っている。その後、私の祖父は戦争景気で事業を成功させたが、太平洋戦争の戦況が悪化すると財産は灰燼(かいじん)に帰した。「その後のダバオ」に居残って成功したならばどんな人生を送ることになったのか、つい想像したくなる。
著者の祖父「清吉」は我が祖父の3歳歳下(としした)で大正8年にダバオに渡航、現地で開墾事業に成功して財をなしたという。偶然の一致に驚き、購入した。ミステリーの書き手である著者だけに小説仕立てだが、祖父夫婦とその子供たちについては事実のみ書かれているらしい。筋書きも多くは実話を踏まえている。しかしその結末は私の想像を粉微塵(みじん)に打ち砕き、衝撃的であった。
前半では達意の文章が軽快に流れ、サスペンスにも富む。農民たる祖父母たち入植者たちの血のにじむ努力と成功譚(たん)は、パール・バックの『大地』をも連想させよう。筆が暗転するのは日米が開戦した昭和16年12月以降。本書の残り3分の1でミンダナオに居留した邦人たちを待ち受けた運命は、ページを繰るのも躊躇(ためら)われるほど陰惨だ。近年になり伯父が著者に語ったエピソードに至っては、目を疑ってしまう。私の祖父がそのまま現地に残ったなら私はまずこの世に生まれなかっただろうと、予想外の読後感に悪寒を覚えた。
恐慌の続く大正期にあって、多くの日本人が海を越えた。「国際化」は近年に始まったのではない。10代の少年たちが2週間の船旅にも臆さず、ミンダナオのジャングル開拓に向かったのだ。当時は長子相続制が支配的であったから、次男以下には継ぐべき十分な家督がない。国内には夢を持てなかったのだ。幸い、ダバオでは明治末から日本人が開墾の礎を築いていた。若者たち単身者は、夫婦者しか渡航が認められなかったブラジルではなく、フィリピン諸島の南端に位置する「南国の楽園・ダバオ」を目指した。
2メートルの大蜥蜴(とかげ)が家屋に上がり込むような大自然に囲まれ、日本人の誘拐も頻発する環境で、彼らは「後がない」と一心に仕事に打ち込む。甲斐(かい)あって清吉は約百ヘクタールの農園主となる。その成功者のもとへと蕗枝(ふきえ)が嫁入りしてくる。物語は三人の子を産んだ蕗枝の視点で語られていく。
ダバオには日比の混血児も多いが、それは日本人の土地所有が認められなかったことに起因する。フィリピン人の妻を娶(めと)り、しかし籍を入れずにフィリピン国籍を得た我が子に土地を持たせようとするためだ。多くの悲劇はここに始まる。フィリピンは19世紀末に米国の植民地となっていた。ひとたび日米が開戦すると、親子は敵どうしとなる。米国統治下でそうした複雑な親子も含む日本人農園主たちは土地を捨て捕虜となり、日本軍が上陸・進撃してくると兵士もろとも米軍に追われて、人跡未踏のジャングルを彷徨(さまよ)い歩く。自分の身体にたかるウジを食べ、我が子を手にかける地獄である。
銃弾の豪雨と飢餓の淵(ふち)にあっても清吉は終始冷静で妻子を守りきるが、家族の誰も亡くならなかったことで戦後は罪の意識に苛(さいな)まれる。書くことも地獄であるような記録を活字に残した著者には、感謝の意を表したい。