書評

『本居宣長』(作品社)

  • 2018/12/08
本居宣長 / 熊野 純彦
本居宣長
  • 著者:熊野 純彦
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(899ページ)
  • 発売日:2018-09-10
  • ISBN-10:4861827051
  • ISBN-13:978-4861827051
内容紹介:
根源的(ラジカル)な全体像本書の「外篇」は、明治改元によってこの国の近代が開かれたそののち、宣長のうえに流れてきた時間を測りなおそうとするこころみである。一方でその蓄積をふまえ… もっと読む
根源的(ラジカル)な全体像

本書の「外篇」は、明治改元によってこの国の近代が開かれたそののち、宣長のうえに流れてきた時間を測りなおそうとするこころみである。一方でその蓄積をふまえ、他方でその堆積をかき分けてゆくことで、私たちははじめて、今日の時代のただなかで宣長の全体像をあらためてとらえかえすことができる。本書の「内篇」でもくろまれるのはそのくわだてにほかならない。たほう「外篇」がこころみるのもいわゆる「研究史」ではない。それはむしろ、現在の私たちが宣長の生と思考との痕跡をたどりなおそうとするさい、その所与の条件を形成する、本居宣長をめぐる近代日本の精神史のひとこまを検討することを目あてとするものなのだ。

対極にある思想家に関心向ける

西欧哲学が専門の熊野純彦氏が、本居宣長(もとおりのりなが)をテーマにする大著を完成させた。二部からなる。前半の「外篇 近代の宣長像」では、明治以来の学者や思想家が宣長をどう論じてきたかを概観。後半の「内篇 宣長の全体像」では、宣長の著作のなかみに立ち入った考察を加える。九○○頁(ページ)もの圧倒的な仕事である。

本書を読むうち、巨大ショッピング・モールに迷い込んで、散策しているかのような錯覚に陥る。いっぽうの棟では村岡典嗣、津田左右吉、和辻哲郎、佐佐木信綱、羽仁五郎、時枝誠記、山田孝雄、久松潜一、西郷信綱、丸山眞男、松本三之介、吉川幸次郎、小林秀雄、相良亨、…といった時代を代表する論客たちが、めいめいの店を構え、ユニークな議論を展開している。もういっぽうの棟では、宣長の生涯をたどりつつ、『排蘆小船』『紫文要領』『石上私淑言』といった初期の文学論・和歌論や、賀茂眞淵との運命的な出会いと萬葉研究、ライフワークとなった『古事記伝』の執筆に至るまで、宣長の思索の歩みをたっぷり堪能できる。巻末に収められている参考文献は四五○冊あまり。菅野覚明、神野志隆光、子安宣邦、高野敏夫、田中康二、東より子、日野龍夫、百川敬仁、…といった粒選(つぶよ)りの研究者らをはじめ、およそわが国で、宣長について書かれた主な仕事が網羅的に掲げられている。今後、本居宣長について何か議論を始めたい場合、大いに重宝するはずだ。

さて、なぜいま、宣長なのか。

熊野氏は高校三年の頃、宣長関連の書物を読みふけったのだそうだ。そして、想像だが、西欧哲学の深奥にわけ入る研究を重ねれば重ねるほど、日本の知性の座標軸のいわば原点にもあたる、本居宣長その人に対する興味が、ふつふつと湧いてきたのではないか。熊野氏を駆り立てたこの動機には、理があると思う。

宣長の『古事記伝』は、契沖や眞淵を先行業績として踏まえ、科学的で合理的な方法により、『古事記』のテキストを解明した空前の業績である。人びとはこの仕事をみて、神道はなるほど日本固有の知の体系だと納得し、国学に信頼を寄せた。だが反面、彼は極端な尊皇思想の持ち主でもある。宣長一人の人格に、実証的な科学的合理主義と偏狭な自国中心主義とが同居している。この矛盾をどう理解すればよいか。研究者は長年、頭を悩ませて来た。

戦前、皇国史観の嵐が吹き荒れると、本居宣長はその元祖に祀(まつ)りあげられた。戦後、その反動で、宣長は正面から取り上げにくいテーマになった。だから小林秀雄が、ライフワークとして『本居宣長』を書いたのは、勇気ある選択だった。

「科学的合理主義と自国中心主義とが同居している」のは、宣長に限らない。いまの日本人の自己像でもある。だからなのか、宣長のことをうまく考えられない。忘れたふりをしている。それは戦後の日本人が、過去に背を向け、自己理解をやめ、歴史に蓋(ふた)をしているということだ。そういうやり方は、もうやめよう。熊野氏の『本居宣長』は、そんな呼びかけと受け取れる。西欧哲学を日本思想の流れとクロスさせれば、新しい知の展望が生まれるだろう。そうした希望の表明とも聞こえる。

熊野氏の本書の文体は、だから、やわらかい。本来はいがみ合うはずの論者らの主張を、誰にも肩入れしすぎず、好意的に紹介していく。そして出しゃばらない。とんがった新味を打ち出すのでもない。代わりに熊野氏は、ショッピング・モールのオーナーのように、ひとりずつそれなりの出番をつくっていく。すると読者は、さあ、これからあなたの出番もありますよ、と声をかけられたみたいな気持ちになる。

ポストモダンがかつて、もてはやされた。フーコーの知の考古学も注目された。古典主義時代の/科学の時代の、エピステーメー(知の枠組み)。そうした累積が、思想の地図を理解する補助線になるのだとすれば、日本のプレ近代(江戸時代)をかたちづくっている累積にも、注目すべきではないか。フーコーの仕事を追いかけて珍しがるひまに、自分の現場で並行する作業をすべきなのだ。熊野氏の『本居宣長』は、そういう現場の杭打(くいう)ち作業である。

本居宣長は、国学を太い流れに変え、幕末維新を流れ下って、皇国史観という異様な実を結んだ。それを嫌って、宣長から目を背けて来たのは賢明でない。宣長は、江戸の幕藩制を明治近代につくり変えた、ナショナリズムの運動の源でもある。この系譜をきっちり押さえないと、日本の近代を考えることはできない。評者もたまたま本居宣長を論ずる書物を用意しているところなので、熊野氏の仕事に勇気づけられた。

本書の価値は、西欧哲学を専門とする熊野氏が、その対極に位置する思想家である本居宣長に関心を向けていること。そして、宣長の仕事には、世界に向けて普遍言語で論ずるに足る内実がある、と示していることだ。西欧と出会う以前の日本思想(漢文や和文で書かれている)を、西欧のポストモダンと肩を並べる水準で論じ切れば、この国の議論は新しいステージに飛躍できるだろう。
本居宣長 / 熊野 純彦
本居宣長
  • 著者:熊野 純彦
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(899ページ)
  • 発売日:2018-09-10
  • ISBN-10:4861827051
  • ISBN-13:978-4861827051
内容紹介:
根源的(ラジカル)な全体像本書の「外篇」は、明治改元によってこの国の近代が開かれたそののち、宣長のうえに流れてきた時間を測りなおそうとするこころみである。一方でその蓄積をふまえ… もっと読む
根源的(ラジカル)な全体像

本書の「外篇」は、明治改元によってこの国の近代が開かれたそののち、宣長のうえに流れてきた時間を測りなおそうとするこころみである。一方でその蓄積をふまえ、他方でその堆積をかき分けてゆくことで、私たちははじめて、今日の時代のただなかで宣長の全体像をあらためてとらえかえすことができる。本書の「内篇」でもくろまれるのはそのくわだてにほかならない。たほう「外篇」がこころみるのもいわゆる「研究史」ではない。それはむしろ、現在の私たちが宣長の生と思考との痕跡をたどりなおそうとするさい、その所与の条件を形成する、本居宣長をめぐる近代日本の精神史のひとこまを検討することを目あてとするものなのだ。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年11月18日

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