書評
『新編 銀河鉄道の夜』(新潮社)
戦争中に少年時代を送った私などと同じ年代に属する者には、片山明彦扮するところの『風の又三郎』の映画の記憶が、忘れがたく染みついていることだろうと思う。「アマイ林檎モ吹キトバセ」のメロディーを、私たちはよく口ずさんだものである。
しかし、賢治の作品のなかで、「雨ニモ負ケズ」式のイデオロギーがあまりにも露骨にあらわれているようなものは、どちらかと言えば私は好まない。『銀河鉄道』のなかにも、いわば賢治の被害妄想コンプレックスともいうべきものが看て取れるが、私はこの作品を一つのメルヘンとして、限りなく愛しているのである。
『銀河鉄道』一篇のなかに思うさまばらまかれているのは、青白い光や、紫色の石や、透明な空気などといった、カチッとした美しい鉱物的なイメージの数々である。これは賢治の詩精神の凝った結晶ともいうべきもので、賢治の変に宗教的なヒューマンな敗北意識よりも、こんな無機物的なイメージの方が、私にはよっぽど親しみやすく嬉しいのだ。もうひとつ、少年の頃に深く印象づけられた賢治の童話の特徴は、その用いるオノマトペの何とも言えない面白さである。「山がうるうるもりあがって」とか、「そこらはばしゃばしゃ暗くなり」とか、「どってこどってこ変な音楽をやっていました」とか、そんな奇妙な形容詞が、たちどころに五つも十も思い出せるほど、私の記憶にそれらは深く刻みつけられている。
おそらく、賢治文学に思想性や理想主義を読み取ろうとする人たちにとっては、こんな私の味わい方は、かなり変則的に見えるかもしれない。が、表面にあらわれた童話の思想なんて、私にはどうでもいいような気がする。賢治の童話に匹敵する童話の傑作を昭和文学に求める人がいるとすれば、私はただちに稲垣足穂の絶妙の短篇『チョコレット』を挙げるだろう。これには、思想性なんぞ一かけらもない。
博物学や地質学や天文学の術語を作品中に好んで用い、みずからも太古の獣の骨など発掘したことのある賢治。彼には、どこか北方風な汎神論者のおもかげがある。『銀河鉄道』のなかで、殊にも私の愛するエピソードは、飛んでいる鷺や雁を捕えて押し葉にするのを商売にしている「鳥捕り」男の物語である。ともすると童話の陥りがちな比喩の陥穽から、これは見事に独立した完壁なイメージの開花であろう。
【この書評が収録されている書籍】
しかし、賢治の作品のなかで、「雨ニモ負ケズ」式のイデオロギーがあまりにも露骨にあらわれているようなものは、どちらかと言えば私は好まない。『銀河鉄道』のなかにも、いわば賢治の被害妄想コンプレックスともいうべきものが看て取れるが、私はこの作品を一つのメルヘンとして、限りなく愛しているのである。
『銀河鉄道』一篇のなかに思うさまばらまかれているのは、青白い光や、紫色の石や、透明な空気などといった、カチッとした美しい鉱物的なイメージの数々である。これは賢治の詩精神の凝った結晶ともいうべきもので、賢治の変に宗教的なヒューマンな敗北意識よりも、こんな無機物的なイメージの方が、私にはよっぽど親しみやすく嬉しいのだ。もうひとつ、少年の頃に深く印象づけられた賢治の童話の特徴は、その用いるオノマトペの何とも言えない面白さである。「山がうるうるもりあがって」とか、「そこらはばしゃばしゃ暗くなり」とか、「どってこどってこ変な音楽をやっていました」とか、そんな奇妙な形容詞が、たちどころに五つも十も思い出せるほど、私の記憶にそれらは深く刻みつけられている。
おそらく、賢治文学に思想性や理想主義を読み取ろうとする人たちにとっては、こんな私の味わい方は、かなり変則的に見えるかもしれない。が、表面にあらわれた童話の思想なんて、私にはどうでもいいような気がする。賢治の童話に匹敵する童話の傑作を昭和文学に求める人がいるとすれば、私はただちに稲垣足穂の絶妙の短篇『チョコレット』を挙げるだろう。これには、思想性なんぞ一かけらもない。
博物学や地質学や天文学の術語を作品中に好んで用い、みずからも太古の獣の骨など発掘したことのある賢治。彼には、どこか北方風な汎神論者のおもかげがある。『銀河鉄道』のなかで、殊にも私の愛するエピソードは、飛んでいる鷺や雁を捕えて押し葉にするのを商売にしている「鳥捕り」男の物語である。ともすると童話の陥りがちな比喩の陥穽から、これは見事に独立した完壁なイメージの開花であろう。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする





































