書評

『日常生活の冒険』(新潮社)

  • 2017/07/06
日常生活の冒険 / 大江 健三郎
日常生活の冒険
  • 著者:大江 健三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(473ページ)
  • 発売日:1971-08-27
  • ISBN-10:4101126062
  • ISBN-13:978-4101126067
内容紹介:
たぐい稀なモラリストにして性の修験者斎木犀吉―彼は十八歳でナセル義勇軍に志願したのを手始めに、このおよそ冒険の可能性なき現代をあくまで冒険的に生き、最後は火星の共和国かと思われるほど遠い見知らぬ場所で、不意の自殺を遂げた。二十世紀後半を生きる青年にとって冒険的であるとは、どういうことなのであろうか?友人の若い小説家が物語る、パセティックな青春小説。
この小説のなかには、いろんな現代風のテーマの議論が出てくるが、全体的な印象からいえば、形而上学的でもなければ哲学的でもなく(また、それにふさわしい乾いた文体があるわけでもなく)、むしろ叙情的という言葉が、いちばんぴったりするような雰囲気の小説ではないかと思う。大江氏の生得の武器である、子供っぽい隠喩の連続した、魅力あふれる一種独特な饒舌の文体が、長編小説の領域で、これほど成功したのもはじめてであろう。

叙情的というと、誤解を招くおそれもあろうが、実際、みずみずしい期待をもって日常生活の冒険に出発する斎木犀吉と、その友人の小説家(すなわち作者)の、地獄めぐりに似た東京の町の放浪(第二部)には、一種の新しい都会の神話ともいうべき、無機物的な叙情性の発見がある。アラゴンはみずから「パリの農夫」を気取ったが、みみっちい戦前の東京の饐えたような叙情を知らない、地方出身の青年作家たる大江氏には、資本とマスコミの中心たる戦後のマンモス都市「東京の農夫」を呼称する資格があろう。

「ヒロイックな行為」とか、「危険な感覚」とか、「性の領域の探求」とかいった、ここ数年来、この作家が暖めてきた哲学も、この叙情的な軽快な文体、作家のいわゆる「女が裸の上に着ている短くて薄い肌着ほどの抵抗感の文体」のなかに、きれいに溶けこんでしまって、現実的な重みをもつにいたらない。しかし、それはそれでよいのかもしれない。作者のねらいは、おそらく、そこにはないのだから。

むしろ、わたしが面白いと思ったのは、この数年、大江氏がやむなく置かれた状況――若い小説家としての世間的な名声とか、婚約者との結婚とか、進歩的文化人としての活動とか、筆禍による右翼の脅迫とか、等々――が、ある距離感を伴って、甘く苦い、いくらか自嘲的ですらある反省とともに、作者の創作衝動のための堆肥を形成することになった、ということである。

そういう私小説的な作品の読み方を、わたし自身は好まないけれども、たしかに、大江氏の作家としての成長ぶりを、そこに認めてもよいのではあるまいか。この小説には、すぐれたユーモアと、イロニーがある。

半面、日常生活の冒険という主題には、作者の苦しい自己弁護があるようにも思う。今まで極端に観念的な作家として、空疎な観念語をもてあそび、非現実的な性的な夢想に没頭し、批評家の顰蹙を買ってきた大江氏が、ともかくも、日常的な体験に根ざした世界の線にまで後退したのである。作者はこれを別の言葉で、「観察力こそが想像力なのだ」という。

しかし、「饒舌にしゃべりまくり猛烈に性交」し、酒を飲み喧嘩をし、自動車を盗むだけの「ぼくらの時代の人間」に、真の冒険などあり得るだろうか、という素朴な堂々めぐりの疑問には、最後まで明確な答えを出していない。だから、最後に「危険の感覚は失せてはならない」などとオーデンの詩句を引いて物語を結んでも、ほとんど説得力はない。

ちょうど、この疑問を作者が投出してしまったのと同じように、悪夢のような物語が進行するあいだ、ほとんど禁欲の行者のごとく、一度も性交しなかった潔癖な「ぼく」が、最後にいたって、斎木犀吉のかつての妻であった大資本家の娘と、ホテルの一室で、無感動に、性交してしまうのである。

これは、冒険に対する作者の幻滅、諦めの象徴であろうか、こんな結末のおかげで、冒険も危険も、読者の耳を素通りしてしまう。これをしもイロニーだといってしまえば、それまでだが……

わたしの心にいちばん強く焼きついている印象的な場面は、第二部の終り、「ぼく」と卑弥子が疾走するアームストロングのなかで、ヘンリー・ミラーの『性交の国』について語る場面である。卑弥子がすすり泣いてハンドルから手を放すと、一瞬、生命の危険を味わった「ぼく」は、突然衝動的になって、おれと結婚しないか、などとわめいてしまう。

――こんなふうに、若い男女が、あいまいな友情を手探りし合いながら、傷ついたり傷つけ合ったり、理解し合ったり誤解し合ったりする日常生活の描写は、べつに冒険的ではないが、爽快なリズムがあって、美しい。

わたしには、英雄的な死ということは考えられても、英雄的な生き方ということは、とても考えられない。また、大江氏の小説を読んでいつも驚くことは、いとも簡単に、男がすすり泣くことである。

マゾヒズムとサディズムの接点は、まことに微妙で、見分けがたい。このへんが、わずかながら時代を隔てて生れた、わたしどもの世代と、大江氏の世代とのダンディズムの相違であろう。

【この書評が収録されている書籍】
澁澤龍彦書評集成  / 澁澤 龍彦
澁澤龍彦書評集成
  • 著者:澁澤 龍彦
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(480ページ)
  • 発売日:2008-10-03
  • ISBN-10:4309409326
  • ISBN-13:978-4309409320

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日常生活の冒険 / 大江 健三郎
日常生活の冒険
  • 著者:大江 健三郎
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(473ページ)
  • 発売日:1971-08-27
  • ISBN-10:4101126062
  • ISBN-13:978-4101126067
内容紹介:
たぐい稀なモラリストにして性の修験者斎木犀吉―彼は十八歳でナセル義勇軍に志願したのを手始めに、このおよそ冒険の可能性なき現代をあくまで冒険的に生き、最後は火星の共和国かと思われるほど遠い見知らぬ場所で、不意の自殺を遂げた。二十世紀後半を生きる青年にとって冒険的であるとは、どういうことなのであろうか?友人の若い小説家が物語る、パセティックな青春小説。

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