書評
『静かな生活』(講談社)
大江健三郎ほど自らの作品について多弁に語る作家は、世界的にも珍しいのではないだろうか。ラテンアメリカにもバルガス=リョサの例があるものの、大江の比ではない。一般読者や批評家にとり、彼の言葉は作品を読み解く助けとなる一方、それを知ったことによって読み方を方向づけられてしまうという、ある種の強制力も生まれてくる。たとえば、富岡幸一郎のインタビューに答えて、彼は次のように言う。
正鵠(せいこく)を射た自己批評である。もちろんこのくらいのことなら読者にだって分かるのだが、本人の口から発せられると、何か、お墨付きをいただいた気がしてしまうのである。だがそんな姿勢ではいけない。たまたま結論が一致したとしても、読者は自由な立場からそこへ至らなければ、彼の本を読む意味がない。
さて、肝心の『静かな生活』は、最近書かれた短編六つから成る連作小説である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1991年)。
大きな枠組みでいえば、『新しい人よ目覚めよ』や『「雨の木(レインツリー)」を聴く女たち』にも連なっている。これまでは語り手である作家の「僕」が実生活および創作上の危機(ピンチ)に遭遇し、それを乗り越えて「回心」に至る過程が描かれてきた。その際、実生活では脳に障害がある長男イーヨーが、また創作においてはダンテやブレイクなど、一連の宗教文学の古典が媒介となってきた。
ところが今回は、基本的性格は変わらないものの、語り手が大学生の娘になっているという大きな違いがある。そこから、ある意味で膠着状態になっていた家族のイメージに変化が生じ、「僕」の苦悩が直接には伝わってこないことや、語り手が女性であるところから生まれるなごやかな雰囲気によって、読者はかなりリラックスして読み進んでいけるはずだ。
内容も彼女がつけた日記なので、とりあえず様々な危機は乗り越えられたであろうことが予想されるにもかかわらず、次々と語られる事件を読者は現在として読んでしまい、痴漢騒動や姉を救ったイーヨーの冒険などに思わず興奮してしまう。年長者たちが背後に回り、姉弟三人が中心になっているため、空気が軽く、青春小説としても読めるのがいい。
とはいえ、主人公三人はしばしば「僕」の分身ともなる。ことに語り手の「私」がそうで、イーヨーの後見人として、「時がたった! 時がたってしまった!」という感慨に襲われるときの彼女などは「僕」そのものといってよい。あるいはセリーヌ研究のためにカードを使うところなど、父親そっくりだ。あるルポルタージュで作者が、息子に自分の姿を見たというようなことを語っていたのを想い出す。
新たな作品の中に先行する作品を取り込むというのは、いまや作者特有の方法になっていて、本書も例外ではなく、イエーツやブレイクの詩が引用されている。だが、今回は趣向を変え、タルコフスキーの『ストーカー』やエンデの『はてしない物語』について親子で批評しあったり、「私」が卒論のテーマとしてのセリーヌを語ったりしているので、そこに「僕」の影がちらついているにせよ、読者は気軽にその議論に参加することができそうだ。作者自身の先行作品も、ずいぶん取り込まれている。プールのエピソードに引用されるイーヨーの「僕は沈みました。……」という言葉や、最後の短編「家としての日記」で語られる忌まわしい事件については、他の作品を読むときより明らかとなる。
モデルの成長、老いとともに小説も変わっていく。本書によって、家族の共生という作者年来のテーマは新たな段階を迎えた。
苦悩と波乱のあとの静けさ。次はどうなるのだろう。
小説は、大きい目で見ると、すべてコンバージョンの物語だと思います。ある人間が苦難を味わって、そして以前のものではない人間になるということを、小説のーつの形だと僕は考えていて、その方向でこの十年ほどの仕事を続けてきました。(『作家との一時間』)
正鵠(せいこく)を射た自己批評である。もちろんこのくらいのことなら読者にだって分かるのだが、本人の口から発せられると、何か、お墨付きをいただいた気がしてしまうのである。だがそんな姿勢ではいけない。たまたま結論が一致したとしても、読者は自由な立場からそこへ至らなければ、彼の本を読む意味がない。
さて、肝心の『静かな生活』は、最近書かれた短編六つから成る連作小説である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1991年)。
大きな枠組みでいえば、『新しい人よ目覚めよ』や『「雨の木(レインツリー)」を聴く女たち』にも連なっている。これまでは語り手である作家の「僕」が実生活および創作上の危機(ピンチ)に遭遇し、それを乗り越えて「回心」に至る過程が描かれてきた。その際、実生活では脳に障害がある長男イーヨーが、また創作においてはダンテやブレイクなど、一連の宗教文学の古典が媒介となってきた。
ところが今回は、基本的性格は変わらないものの、語り手が大学生の娘になっているという大きな違いがある。そこから、ある意味で膠着状態になっていた家族のイメージに変化が生じ、「僕」の苦悩が直接には伝わってこないことや、語り手が女性であるところから生まれるなごやかな雰囲気によって、読者はかなりリラックスして読み進んでいけるはずだ。
内容も彼女がつけた日記なので、とりあえず様々な危機は乗り越えられたであろうことが予想されるにもかかわらず、次々と語られる事件を読者は現在として読んでしまい、痴漢騒動や姉を救ったイーヨーの冒険などに思わず興奮してしまう。年長者たちが背後に回り、姉弟三人が中心になっているため、空気が軽く、青春小説としても読めるのがいい。
とはいえ、主人公三人はしばしば「僕」の分身ともなる。ことに語り手の「私」がそうで、イーヨーの後見人として、「時がたった! 時がたってしまった!」という感慨に襲われるときの彼女などは「僕」そのものといってよい。あるいはセリーヌ研究のためにカードを使うところなど、父親そっくりだ。あるルポルタージュで作者が、息子に自分の姿を見たというようなことを語っていたのを想い出す。
新たな作品の中に先行する作品を取り込むというのは、いまや作者特有の方法になっていて、本書も例外ではなく、イエーツやブレイクの詩が引用されている。だが、今回は趣向を変え、タルコフスキーの『ストーカー』やエンデの『はてしない物語』について親子で批評しあったり、「私」が卒論のテーマとしてのセリーヌを語ったりしているので、そこに「僕」の影がちらついているにせよ、読者は気軽にその議論に参加することができそうだ。作者自身の先行作品も、ずいぶん取り込まれている。プールのエピソードに引用されるイーヨーの「僕は沈みました。……」という言葉や、最後の短編「家としての日記」で語られる忌まわしい事件については、他の作品を読むときより明らかとなる。
モデルの成長、老いとともに小説も変わっていく。本書によって、家族の共生という作者年来のテーマは新たな段階を迎えた。
苦悩と波乱のあとの静けさ。次はどうなるのだろう。
初出メディア

月刊Asahi(終刊) 1991年2月号
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