あらゆる分野に「サーカス的なるもの」は遍在する
(著者は)サーカスこそが今日の文化や社会を見直し、改変するためのモデル、世界を変えるためのモデルになりうることを、サーカスのさまざまなジャンルや演目を例に引きながら立証しようとしている。〔……〕
まずは「動的バランス」である。
これはサーカスのどのジャンルにとっても不可欠なものであり、一目瞭然の例が「綱渡り」である。ただし、「動的バランス」が欠かせないのはサーカスだけではない。文化全体あるいは社会全体にとっても同様である。そうしたなか、著者は、サーカスこそが文化や社会にとって「動的バランス」の最高のモデルたりうることを強調している。なぜなら「そこには、聖なるものと美的なるものとのアルカイックな未分化状態が、つねに存在しているからである」という。また、「サーカス空間では、ひとつの文化の枠内だけでなく、さまざまな非均質的な、対立してさえいるような文化のあいだでも、対話がおこなわれている。サーカス芸術には、社会生活の自己調節と自己保存のメカニズム、社会の安定、社会の調和、つまり社会の諸領域と人間との動的バランスを得るための「秘密」が、少なからずある。サーカス芸人の生と芸術は、バランスの破壊との闘いの具体例となっている」。
かくして著者は本書全体をとおして「動的バランス」の意義を繰り返し説いていくことになる。
またそれと同時に、サーカスのノマド性も強調されている。今日では常設サーカスも少なくないが、依然として根底にはノマド性があることに変わりなく、それがゆえにこそ国家にしばられないサーカス特有の現象や世界観が見られるというのである。
非定住生活〔……〕のリズムは、宇宙がもつ世界的規模のリズムと共鳴している。そして、サーカステントあるいは開かれたサーカス舞台だけが、芸人たちが歴史や現在時のなかで位置を定め、さらには未来に突き進んでいくために欠かせない、内的座標の中心の役割を果たしている。上演中は、空間と時間はテントの円屋根の下やリングの円のなかで融合する一方、演し物そのものは聖なる行為と化す。しかしながら、この中心はけっして一箇所にとどまってはいない。それは動的であって、運び去られうる。
演技の場が移動していくだけではない。個々の芸人の役割も固定されておらず、ひとりでいくつもの役をこなしていく。
身体の表象の複数性もまた、ヒエラルキーそれ自体に抵抗したり、支配構造の力に対抗する方法となっている。というのも、サーカス芸人は国家を、精神的、身体的に従属させ抑圧する制度と感じ、またしたがって世界悪と感じているからである。サーカス芸人は、総合的な演し物を演じることによって、サーカス芸術がいかなるヒエラルキーにも従わないという点、芸術的イメージの力を除くいかなる権力からも独立しているという点をあらためて強調しているのである。
さらにはそれだけでなく、「未完の運動の過程で、サーカスは、世界改造への志向を基礎としたユートピア的な桁外れのプロジェクトを現実化している」。
この見方はいかにも大仰に思われかねないが、著者によれば、まさにサーカス芸術においてこそ、「文学と見世物のあいだ、言語的なものと視覚的なもののあいだの、間メディア的であると同時に間記号論的でもある、バランスのとれた普遍的なモデルのようなものを発見しようとする試みがみられる」のであった。サーカスが普遍的であると同時に多元的でもあることを、著者は随所で強調している。「バランスの力学とノマディスムの流動経験がサーカスの本性そのもののなかに植えつけられているがために、この芸術のなかでは、大衆文化と高級文化、瀆神文化と神聖文化、人類文化と民族文化などの諸要素が共存することも、アルカイックな時代の文化的価値を保持する一方で復興もする「保護・復元力」を涵養することも可能になっている。このように理解するならば、サーカスは芸術の枠外に導きだされ、サーカスを芸術内外の分野にかかわるノマド・タイプの文化現象とみなすことができよう」。
[書き手]桑野隆(元早稲田大学教育・総合科学学術院教授/ロシア文化・思想)