書評

『近代の哲学的ディスクルス I』(岩波書店)

  • 2020/03/11
近代の哲学的ディスクルス I / ユルゲン・ハーバマス
近代の哲学的ディスクルス I
  • 著者:ユルゲン・ハーバマス
  • 翻訳:三島 憲一, 轡田 収, 木前 利秋, 大貫 敦子
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:オンデマンド (ペーパーバック)(388ページ)
  • 発売日:2014-05-09
  • ISBN-10:400730100X
  • ISBN-13:978-4007301001
内容紹介:
近代のプロジェクトははたして終焉したのか。ヘーゲルからニーチェ、ハイデガーに至るドイツの思索、そしてデリダ、フーコーらのポスト構造主義とカストリアディスやルーマンたちのポストモダン論を俎上に、モダンとポストモダンの本質を鋭く問いかける。コミュニケーション的理論の卓抜な成果。
〈近代〉とよばれている時代がはじめて人びとの眼のまえにあらわれたとき、哲学者たちが、どんなふうに驚き、到来した時代をどうつかまえようともがいたか。つぎに〈近代〉が落着きをとりもどし、さまざまな欠陥を露出しだしたとき、どんなふうにその〈近代〉を批判したか。そしてまた〈近代〉がゆきづまって終りの姿をみせはじめたとき、同時代の哲学者がどんな脱出口をそれぞれ描いたか。それがこの本の著者が、見取図を創りながらたどってみせた軌跡だ。

そのために著者じしんの〈近代〉観が、時代の哲学者たちがえがいた〈近代〉と交叉する場所で、〈近代〉がつかまえられ、規定できていなくてはならない。これは枠組のきめにくいあいまいな場所だが、その場所をどこにとっているかは、著者の見識を問われるところだ。この難しいことを著者ハーバマスは無難にやってのけ、そこに〈近代〉と〈ポスト・モダン〉の象徴的な哲学者たちを連れてきて、おいしく料理してみせている。おいしい理由はふたつある。ひとつはフルコースをきちんと味わえることだ。もうひとつは、まともに全体を料理の素材につかったら、とても手におえそうもない個々の哲学を、ナイフにかかりやすい個所で、しかも全体を象徴できる勘どころを外さずに料理していることだ。

著者ハーバマスによれば、同時代の哲学は〈近代〉を、主観性が自由で自己意識がどこまでも底なしの沼のように反省の歩みをすすめることができるところでとらえようとした。個人は精神をじぶんが所有して自在にできると感じるようになった。そのため個人の原理がなによりも尊重され、批判の権利をもち、自由で精神が責任さえもてば、どんな行為をやってもゆるされる。つまり主観の内部を無限の空間とおもえるような時代がきたと感じた。もっといえば、哲学は主観性の領野を自在にくまなく歩むことができるため、哲学そのものが自己じしんを知ることができるようになった。これがはじめてやってきた〈近代〉をむかえたときに、同時代の哲学が振舞ってみせた原理だった。

ヘーゲルの哲学を例にとれば、主観性の原理である自己意識の自由な振舞いを、科学、道徳、芸術などあらゆる人文現象の基礎にすえて、古代や中世の束縛から解放された歴史のイメージを新しく編成し、それを強固に理念としてかためようとした。まず神学の規範にしたがって行動すれば、神の慈愛がえられるという考えをうち砕き、行動の規範は自己意識の振舞い方にしかないことを高らかに主張する。また理性を掟のように固定してしまうことを、自己意識の振舞いに矛盾をあたえるものとして否定する。そしてヘーゲルの自己意識が、時代にゆれうごきながらとうとう発見したいちばん見事な洞察は、眼のまえにある〈近代〉の市民社会は、古代や中世の都市国家のなかの市民社会とは似ても似つかぬということだった。ひと言でいえばいま眼のまえにある〈近代〉の市民社会は、資本主義の市場経済をかなめにして、私法の輪で利益をもとにした社会関係をつくっている。そこでは国家は、人びとの習慣的な像に反して、社会から遠ざかり、社会のうえに聳えたって分離している。このイメージは〈近代〉の像として比類のないものだった。市民社会は交換を規制する私法だけで脱政治化をつきつめ、国家は官僚や王を規制する憲法で公権力をつくって社会のうえに眼にみえない枠をこしらえている。そして個人主義的な自然法をもとにしてつくられる悟性的な国家は、市民社会の私法関係と等しいもので、それ以上でも以下でもない。

だがハーバマスによれば、ヘーゲルの市民社会の現実は、ただの眼のまえのあるがままの現実ではなくて、あるがままの現実とその背後にある本質のあらわれと理解されている。そこで国家もまたたんに私法関係の総和を反映したものではなくて、本質的な理念の志向をもたなくてはならないとかんがえられた。ヘーゲルはここまで理念をすすめて、国家と社会の在り方から自己意識の振舞い方にいたるまでのすべての領域で〈近代〉の像をつくりあげたことになる。

ヘーゲルの理念をうけついだ哲学者たちは、左派はマルクスやフォイエルバッハのような人びとから、右派はキルケゴールのような人びとにいたるまでヘーゲルのつくりあげた〈近代〉の像を超えようとし、またどこかで解体させようとする。ハーバマスの見取図を勝手に要約してしまえば、〈近代〉の市民社会はヘーゲルのいうように本質力で崇高なる方向に動いているのではなく、投機的で、脈絡もなく、だが生きいきと眼の前で躍動しているみたとおりの現実がすべてだ。それはさまざまな交通と生産と交換を中心に、たくさんの渦をつくりながら動いている。マルクスによればこの市民社会の現実は、人間の対象にむかう行為と、行為のあいだの関係の網目を原動力に動いているので、主観性の原理で動いているのではないことになる。キルケゴールによれば〈近代〉の市民社会はべつにヘーゲルのいうように秩序や体系で動くものではなく、主観性の原理である自己意識が、過去への追憶と想起によって生みだした貯えに支えられた反復で動くものだ。人と人の関係も、人と社会の関係も国家と社会の関係も、この反復のほかに媒介となる原理はないことになる。

この本の著者ハーバマスの特徴は、ニーチェによる近代批判に特別の位置を与え、ニーチェをポスト・モダンのはしりとみなしていることにあるとおもう。著者はどこでニーチェをとらえているかといえば、ふたつある。ひとつは眼のまえの〈近代〉を古典時代の生命力が解体し、神話の健康さが崩壊してしまった時期として堕落とみることだ。もうひとつは眼のまえに躍動しているようにみえた啓蒙思想を偽りとして断罪していることだ。わたしにはハーバマスのニーチェの理解が型通りにおもえてならないが、逆にかえしていえば、そのつかみ方はとても妥当で〈近代〉と〈ポスト・モダン〉の俯瞰図がきわめて正確なことを裏書きしているともいえる。わたしたちはじぶんが何をなしつつあるかを主観性を原理にする自己意識の自由な経路としていつでも知っているとおもっている。だが見取図の全体のなかで何をなしつつあるかは、手易くつかみえない。ハーバマスはこの本で〈近代〉以後の哲学の見取図をつくろうとしているのはたしかだ。それはハーバマスじしんがよく知っていて、意図的にやっている。だがこの見取図が、見取図の見取図のなかで何を意味し、何をやっていることになるのかは、ぜんぶじしんにつかまれているわけではない。そこでいま、ひと口にこの著作の意図を要約してみれば、〈近代〉と〈ポスト・モダン〉のさまざまな哲学のあいだにコミュニケーションの通路をつけようとしているのだといえそうだ。ハーバマスのコミュニケーション理念で哲学者たちの理念を裁断しているのではなく、諸々の哲学の理念のあいだに共時的な通路をつけること自体がコミュニケーションの理論だ、というふうにこの本は進行している。だから〈近代〉の哲学にたいする時、解釈が妥当かどうかは、著者にはあまり問題ではないにちがいない。さまざまな哲学のあいだにコミュニケーションをつけることが、コミュニケーションの理論として妥当かどうかだけが問題だとおもえる。

ハーバマスによれば、ニーチェが反近代のかたちで経路をつけたポスト・モダンの理念は、二つの系列に分れる。ひとつは、バタイユ、ラカン、フーコーなどによってつけられた脱主観の道であり、もうひとつはハイデッガーやデリダによってつけられた形而上学批判の道である。いずれにせよこのふたつに共通したものは、勝手に要約すれば主観的な理性、観察する理性、行動する理性というヘーゲル的な理性の段階性を超越するか、解体(脱構築)するかによって、ポスト・モダンの理念を表象することだといってよい。

たとえばバタイユにとっては、主観性の原理である自己意識の中心から脱却する方法は、聖なる忘我の瞬間を至上体験とするか、エロスの融合する行為によって主体の断絶を存在の連続性へと跳躍させることだ。またヘーゲル、マルクス的な市民社会のカギである交換と生産にたいしては贈与と消費やその爆発である蕩尽を対比させることだ。バタイユにとっては生産という概念は太陽エネルギーにしかあてはまらない。地球上の人間社会がやっているのは、この太陽エネルギーを消費して、事物を変形すること以外のものではない。また地球上のすべての類型の社会の平等化は、ただ資源と経済の豊饒な地域から貧弱な地域への無償の贈与によって均等化される以外にはないし、それを至上の方法としている。しかも人間は未開や原始の段階でそれをやってきたことだ。バタイユのこういう理念が黙示録的な神秘志向で〈近代〉以前とくに未開、原始を喚起するものがあったとしても、主体的な理性を批判的に超越する志向ということでは、ポスト・モダンのひとつの通路にほかならないと著者はかんがえている。

著者ハーバマスはフーコーを、第一に全体的な歴史という概念、歴史じたいがもっているとされるヘーゲル、マルクス的な志向理念を解体する哲学としてみている。全体的な歴史という概念は成り立たない。たかだか工房の歴史とか、道具の歴史とか、技術の歴史とか、いう系列の歴史がかんがえられるだけだ。このことは人間主体という全体的な歴史概念の統合者が、ほんとうは存在しないことを意味している。〈近代〉だけがあたかも歴史の統合者、推進者、変革者として人間が存在しているかのような理性の概念を創作してみせたが、それは有限な存在が、無理やりに無限にむかって超越できるような錯覚をもとにしてつくりあげられた一時期の理念にすぎないものだった。系列の歴史はつみ重なって人文科学の考古学的な層をつくる。おなじように人間のエピステーメーもそれに対応した層をつくる。歴史はただそれだけだ。フーコーは全体的な歴史という〈近代〉の歴史概念と、歴史は理想への志向をもつという〈近代〉の歴史理念を解体し、中性化する。あとには系列と系列のあいだの空間の関係と、系列の変化のあいだの時間の関係しかのこらない。この空間と時間の関係変数をフーコーは権力(解体された権力)とかんがえ、権力論を展開した。フーコーの権力の概念は、国家、社会、世界史の全体性から解き放たれて凧のようにさ迷うことになり、その代りに、明日わたしが定刻に職場にでかけるのは、どんな権力の働きが作用しているのか、今日のわたしがピラフよりも煮ものを好んで喰べた背後には、どんな権力が働いているのかといった問いにいたるまで、権力の問題にすることになる。その代償として、国家の権力がわたしたちを抑圧しているとか、社会の支配力は巨大な富の所有者にあり、われわれはそこから抑圧されているといったような、よくよく確かめてみるとしぼんで小さな作用になってしまうかもしれない壮大であいまいな権力概念の考察からは解放されることになる。

ハーバマスは、デリダの哲学のポスト・モダンの性格的な核を、音声中心の言語理念にたいするデリダの文字表記中心の言語理念、音声言語以前にあった象形表記を言語起源とする理念にみようとしている。これによってヘーゲルの理性、マルクスの価値、ハイデッガーの存在といった概念と、わたしたちの眼差しのあいだには、いつも表記された文字言語という層が介在していなければならないことになる。逆にいえば文字表記を前提にして創りあげられたはずなのに、言語を音声中心であるかのようにみなして構築された〈近代〉までのあらゆる理念は、ひとたびはあいまいなものとして脱構築される必要があるものになってしまう。ヘーゲルの理性やマルクスの価値は、いつもグラマトロジーに介入されて崇高や倫理を文字表記の水準まで中和してしまうだろう。つまり、たかが人間が文字に書き記したものではないかというように。またハイデッガーの存在論の概念もまた聖化された主観性の深淵を、グラマトロジーの介在によって中和されてしまう。その結果ハイデッガーが存在にあたえた運命論的な詩は、ただの表面だけの散文にかわってしまう。そしてここでもまた、フーコーのばあいとおなじように、デリダの理念の存在が問われることになる。タテのものをヨコにして、いったい何をしようとしているのか、というように。

ハーバマスによれば、デリダはユダヤ神秘思想に影響をうけているので、天空と地面を紙とし、海をインクとし、沼の葦草を鉛筆として書記されている眼にみえないユダヤのラビたちの秘教的な文書に近づき、汲みつくそうとして、文字表記中心の理念を主張していることになる。

この本は卓抜な地勢測量師がつくった哲学の見取図で、ヘーゲルの歴史哲学ほどの理念の威力はないが、読む者にじぶんのいる場所を暗示してくれる作用があるとおもう。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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近代の哲学的ディスクルス I / ユルゲン・ハーバマス
近代の哲学的ディスクルス I
  • 著者:ユルゲン・ハーバマス
  • 翻訳:三島 憲一, 轡田 収, 木前 利秋, 大貫 敦子
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:オンデマンド (ペーパーバック)(388ページ)
  • 発売日:2014-05-09
  • ISBN-10:400730100X
  • ISBN-13:978-4007301001
内容紹介:
近代のプロジェクトははたして終焉したのか。ヘーゲルからニーチェ、ハイデガーに至るドイツの思索、そしてデリダ、フーコーらのポスト構造主義とカストリアディスやルーマンたちのポストモダン論を俎上に、モダンとポストモダンの本質を鋭く問いかける。コミュニケーション的理論の卓抜な成果。

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マリ・クレール

マリ・クレール 1990年5月

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