書評

『花野』(講談社)

  • 2020/03/10
花野 / 村田 喜代子
花野
  • 著者:村田 喜代子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • ISBN-10:4062061600
  • ISBN-13:978-4062061605
内容紹介:
女の体に訪れたかすかな老いを抱え、未知の世界へ歩み入るささやかで重い漂泊の旅。書下ろし長篇小説。

卵が尽きるとき

「ねえ、あなた人間の卵みたことある?」

「人間の卵?」

「排卵のときのタマゴよ」

「そんなもの、あるはずないでしょう」

「わたしはあるわ。排卵日のあと気をつけてみてると、柔らかくて白っぼくて小さな粒のようなものが、コロンと落ちてる」……

(村田喜代子『花野』講談社)

私はびっくりして、そのコロンとした粒がついていはしないか、下着をしらべたくなった。

遠山暁子は五十三歳、新興団地で暮らす何不自由ない専業主婦である。髪の半分は白くなった。鼻は高く目の大きい古典的な顔だち。品のいい、おっとりして、少々野暮な中年女性が、他の女たちのやや意地悪な目で語られていく。

のろくさくて仕事に向かない、またその必要もない暁子が、なぜ駅前のパートバンクへ現われ肉体労働をするのか、バーのお手伝いに応募してなったのか、不可解だからである。

海千山千のバーの経営者、白木多恵子は、世間知らずの童女のような暁子が、意外に決断が早く、さめた目を持っているのに気づき、得体の知れない女だ、と思う。人手が足りないので、暁子を即席ホステスに仕立てるため、白髪を染めるシーンが圧巻だ。

なんと太い真黒い毛だろうとわたしはおもった。掌の中でギシギシと、なにか強い生きもののような手応えをさせる……こんなにふてぶてしくて鋭い毛をはやしながら、人間は齢をとっていくのだろうか。

「花野」は秋の季語である。うららかな春の野ではない。人生の秋の茫々と風の吹く萩や薄の野を指す。更年期に入り、そして閉経する。個人差はあるにしても、そのとき女の体も心も激しく変わるらしい。その様相を、作者ならではの特異な感覚で描いた小説である。

閉経とは、「体の中で、遠くひろがる野面の果てに一つの都の崩れ落ちていく」ような感覚らしい。そのとき、夫や娘のために家をととのえ、充足していた主婦の心に、パアッと狼煙(のろし)が上がる。

その頃わたしはどこかへ行ききりになってしまいたいという、ふしぎな気持をつのらせていたのである。

家族を捨ててまで出奔しえない主人公は、昼間だけの「遠い世界」に旅立つ。それがパート放浪だったのである。

パート仲間の三十八歳の下園邦子は暁子に聞く。

「若さってどんなふうなものかしら」

「日射し、ににているとおもうわ・・・・・・だんだん遠ざかって行くの」

私も三十八歳(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1993年)。働きつづけて、ことし目と歯にガタが来た。変調の予感がある。

卵が尽きるとき、こんな喪失感があるものか。私は自分の「子宮という繁栄していた都」の落日もそう遠くないのを思ってギクリとした。

【この書評が収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

花野 / 村田 喜代子
花野
  • 著者:村田 喜代子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(245ページ)
  • ISBN-10:4062061600
  • ISBN-13:978-4062061605
内容紹介:
女の体に訪れたかすかな老いを抱え、未知の世界へ歩み入るささやかで重い漂泊の旅。書下ろし長篇小説。

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波

波 1993年2月1日

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