書評
『蝦蟇の油―自伝のようなもの』(岩波書店)
1
『蝦蟇の油』は黒澤明が68歳のときにひとたび執筆された。これは彼が『影武者』の企画がなかなか進行せず、結局は映画化されなかったが『死の家の記録』と『赤き死の仮面』の脚本を執筆していたころである。いっこうに実現しないフィルムの企画に苛立ちながら、これまでの仕切り直しという気持ちで過去を記録しておきたいという気持ちが働いていたのだろう。もっとも黒澤はこの作業を途中で放り出してしまった。『影武者』が動き出したからである。自伝が書物として纏まるには、さらに6年の歳月が必要とされた。そのゲラを見届けたころ、彼は『乱』の撮影に入った。その後、黒澤はさらに14年を生きて3本のフィルムを監督し、1998年に生涯を終えた。彼は晩年に至るまで旺盛な創作意欲を見せたが、自伝が書き継がれることはなかった。日本では映画監督の自伝というものは、ありそうでいて、案外と数が少ない。黒澤と並んで50年代に国際的巨匠の神話を担った人物を考えてみよう。溝口健二にとってみずからの生涯とは思い出したくない事件の連続であり、彼はとうてい過去を振り返って物語に仕立てあげるゆとりなどなかったはずである。逆に小津安二郎は達観の姿勢が強すぎて、自伝的なるものに徹底して無関心であった。もしそれが可能であったらきわめて興味深い自伝を書き記したであろうとわたしが睨んでいるのは伊丹万作だが、惜しくも彼は戦後まもなく不帰の人となってしまった。われわれはむしろ黒澤明と、その2歳年上のマキノ正博とが自伝を遺したことを、奇貨とすべきであるかもしれない。
『蝦蟇の油』は作者が40歳で『羅生門』を撮る時点で、いきなり中断されている。いよいよこれからが世界のクロサワだと、映画史家であるわたしは続きを読みたいところだが、作者はそれ以後の出来ごとに関しては、書くことの内的必然性がないと判断したのだろう。「作品以上に、その作者について語っているものはないのである」という断言のもとに、筆をおいてしまう。この断言の仕方は、いかにも黒澤のフィルムの登場人物を連想させて興味深い。
マキノ正博の『映画渡世』と比較してみたとき、黒澤のこの態度はより明確に理解できるだろう。マキノの自伝は尾上松之助から江青まで、実に夥しい同時代人との邂逅に溢れ、その貴重な印象記として大きな価値をもっている。作者の人生を離れて途方もなく興味深いエピソードが満載されていて、それを嬉々として世俗的に語ってゆくマキノの、人間をめぐる尽きせぬ情熱に、読者はつい我を忘れてしまう。書物のなかで大勢の人々が群れ集い語りあうさまは、さながら彼が監督した『次郎長三国志』の群衆場面を連想させる。
一方、黒澤の自伝には必要最小限の人物しか登場しない。しかもそれが作者の歯に衣を着せぬ口調で、一刀両断されている。くどくどした説明は不要。要は自分の人生の折々において、彼らがはたした役割だけを簡潔に記しておけばよい。この書物の基調となっているのはどこまでも強靭で直線的な一人称の意志であり、われわれはその相同物を、黒澤の処女作である『姿三四郎』の主人公の歩き方に、すでに認めることができる。
ここで興味深いのは、黒澤がこの書物を世に問うてから5年後の1989年に、きわめて自伝的色彩の濃い『夢』というオムニバスフィルムを監督していることである。『蝦蟇の油』を読むと、そこで強烈な印象のもとに語られていた幼少時のトラウマ的光景が、形を変えて『夢』のなかで映像化されていることがわかり、作者の内面における作品化の過程を辿ることができる。
たとえば『夢』の第2話では、見知らぬ少女の後を追った幼い「わたし」が、桃畑の跡地で、実際に動いている生身の雛人形の一行を目撃するという、奇妙な光景が語られている。自伝の読者はそれが、夭折した姉の思い出に強く結び付いていることを知るだろう。また最終話に登場する桃源郷は、父方の故郷である秋田の小さな村の原イメージがあると判明する。概して語り口は視覚的であり、これは優れた脚本家でもあった作者の優れて成すところでもあった。ちなみに英訳名はSomething Like Autobiographyである。
2
神楽坂というのは、なかなか面白いところである。戦前は市谷から流れてくる陸軍の軍人で賑わった盛り場だったのだが、戦後はいい感じで枯れてきた。自動車の往来を制限して、坂が坂としてブラブラと散歩できるようになっているうえに、そこから小さな路地が十数本も分岐していて、散歩の悦びにことかかない。知り合いのフランス人がパリのムフタール通りの坂道に似ているといったが、なるほどいいえて妙である。黒澤明の『蝦蟇の油』を読んでいるうちに、彼がもっとも多感な青年時代において、この町と浅からぬ交渉をもっていることに、心が惹かれた。神楽坂のいいところは、高架道路が江戸川橋の側にすべて纏められているために、町の空間的な連続性が比較的保たれていることだ。これは、たとえば六本木と比較してみるとよくわかる。六本木という町がわたしにひどく居心地が悪く感じられるのは、ふた筋の高架道路によって町の連続性がズタズタにされているからではないだろうか。
つい先日のことだが、アメリカで日本文学を教えている友人がやってきて、黒澤明の兄の研究を始めたという。もう巷には黒澤明に関する書物が山ほどあるというので、今度は兄貴の研究かいとチャチャをいれると、そうではない、黒澤丙午という人間が弟の明に与えた影響には決定的なものがあり、そこに黒澤映画を解く重要な鍵が隠されているのだと、具体的な映画の細部を細かく説明された、なるほど。『蝦蟇の油』には、のっけから興味深い事実が語られている。
黒澤丙午は1930年代の初めごろ、実はわたしが今住んでいるところから、すぐ眼と鼻のところに住んでいたらしいのだ。彼は当時、無声映画の解説を務める花形弁士であった。父親と衝突して家出をすると、神楽坂の坂のうえに当時あった長屋に、馴染みの女性といっしょに居を構え、そこから歩いて牛込館へと仕事に出かけていた。ここに転がりこんできたのが、その頃はまだプロレタリア絵画運動に邁進していた若き明である。この画家志望の青年にむかって丙午が、「左翼の絵などやめとけ、これからは映画だ」と兄貴風を吹かしたことは、想像に難くない。もっとも丙午の栄光は続かなかった。映画が音声を獲得すると同時に活動弁士は不要となり、彼の懸命なる抗議は映画館側には受け入れられずに終わった。1933年、丙午は女性とともに温泉で心中を遂げてしまうのである。明が兄の衣鉢を継いで映画を志すのは、そのときだ。以後、この1933という数字は、黒澤作品に大きな意味をもつことになる。たとえば『わが青春に悔なし』は、まさにこの年から語り起こされている。
わたしが睨んでいるのは、『どん底』や『赤ひげ』で黒澤が繰り返し描いてきた貧しい長屋のわび住まいというのが、このときの丙午の長屋での居候体験に発しているのではないかということである。1930年代の神楽坂から矢来町にかけてがどのような家並みであったかが判明すれば、かなりのことがわかるはずだと思う。まあ時間はたっぷりある。これからゆっくりとこの坂を上がり下がりしながら、調べごとに耽ることにしよう。
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