書評

『書斎のトリコロール―世紀末フランス小説を読む』(自由國民社)

  • 2019/12/16
書斎のトリコロール―世紀末フランス小説を読む / 芳川 泰久
書斎のトリコロール―世紀末フランス小説を読む
  • 著者:芳川 泰久
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(574ページ)
  • 発売日:1994-07-00
  • ISBN-10:4426676002
  • ISBN-13:978-4426676001
内容紹介:
かつてこんなにフランス現代小説が読まれただろうか。定点観測のようにそれらを読み続けてきた著者の読書ノートから114編を収録。記号への愛、小説の愉楽、読みごたえのあるフランス現代小説のテクスト。

躍動する読書、強固な批評

一九八二年から一九九三年まで書き継がれた芳川泰久による批評が、『書斎のトリコロール』と題されて重厚な一書にまとめられた。仏文学といえばほとんど現代思想を意味したこの十年、日本のフランス小説受容=需要は戦後最大の不毛期にあったのではないかと思われるのだが、じっさいにはただ翻訳出版が商品として成立しなかっただけの話で、本当に読める者、読む快楽を知っている者には、じゅうぶんな材料のあったことが、五百七十頁を超える肉厚な本文によって証明されている。この圧倒的な分量はまた、異国の書物を手にする無償の快楽とともに、誰も耳を傾けてくれないような環境でひたすら読み、書きつづける作業の、意地と孤独をも感じさせるものだ。

しかし「仏現代小説三〇三篇」という副題を持つこの膨大なパノラマに、そんな悲観的な影はいささかも射していない。ましてあちこちに書き散らしたものを寄せ集めた類書にありがちな、雑多な印象ももたらさない。ここに提示されているのは、明確で陽性の意思にもとづいた、きわめて風通しのいい見取り図である。ソレルス、デュラス、シャモワゾー、ル・クレジオ、ドゥブロフスキーら八〇年代末の小説を中心に扱った「フランス小説というモード」、フロイト、ラカン、セール、バルト、デリダ、ライプニッツなど思想・哲学方面の援助を仰ぎながら小説の魅力を解いてみせる「知の肖像/小説の皮膚」、そして八〇年代初頭からなかば過ぎまでの、比較的短い文章をならべた「快楽のレクチュール」という三部構成は、事後的に成立したものではなく、強固な批評の根に支えられた持続的な読みの実践から、おのずと生まれ出たものなのである。

とりわけ強い磁力を放っているのが、フロイト的な「超自我・自我・エス」の構造であり、ラカンの「鏡」であり、セールを経由した「エントロピー」の導入だろう。第二部に収められた評論は、それら他力を他力として、著者の好む言いまわしを借りれば外連味(けれんみ)なく享受し、さらに躍動する読書の運動性を加味することで、目ざましい成果をあげている。サルトル『嘔吐』の分析などはその好例だ。主人公ロカンタンがきわめて女性的な相貌を担っている事実を指摘し、さらに握手と性交、独学者の手やマロニエの枝の萎えぐあいが、射精後の陰茎に似ていることに目をつけて、ロカンタンの嘔吐感が妊娠の先取りとしての悪阻にほかならないと結論するその手際には、吐き気どころか、きわめて爽快な読後感がある。そのほか、物語の構造を用意する差異としての「欠如」を、境界に配置された鏡をはさんだ「双生」のうちにとらえようとするトゥルニエ的世界の解読、川、島、中、鶴子、木といった固有名に示された機知語的な勢いが作品構造と一致しているという驚くべき事実を、手品のように暴いてみせる有島武郎『或る女のグリンプス』の精読を挙げてもいいだろう。これらはみな、仏文学などといった建前を放り出しても崩れることのない、生理的で艶やかな批評ばかりだ。

断言しておこう。過去十年間の仏小説を回顧するためだけに本書を繙こうとするのは、したがって大きな過ちである、と。ここに刻印されているのは、自身の批評行為のありようをフランス思想・小説を通して模索したレッスンの爪痕であり、ひとりの「批評家」が生成するまでの誠実な軌跡にほかならないからだ。その「批評家」としての最も豊穣な資質は、ほぼ同時に刊行された『漱石論』(河出書房新社)において発揮されているが、いずれ一本にまとめられるだろう吉行淳之介、深沢七郎、宮内勝典ら、日本人作家をめぐる先鋭な論考とあわせ読んではじめて、成り行き上フランス国旗の三色に染まってしまったにすぎないこの書物は、いよいよ旗幟(きし)鮮明な文学論として輝き出すにちがいない。

【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN-10:4122055539
  • ISBN-13:978-4122055537
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

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書斎のトリコロール―世紀末フランス小説を読む / 芳川 泰久
書斎のトリコロール―世紀末フランス小説を読む
  • 著者:芳川 泰久
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(574ページ)
  • 発売日:1994-07-00
  • ISBN-10:4426676002
  • ISBN-13:978-4426676001
内容紹介:
かつてこんなにフランス現代小説が読まれただろうか。定点観測のようにそれらを読み続けてきた著者の読書ノートから114編を収録。記号への愛、小説の愉楽、読みごたえのあるフランス現代小説のテクスト。

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初出メディア

図書新聞

図書新聞 1994年9月3日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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