書評
『宇宙を呑む―アジアの宇宙大巨神の系譜 (万物照応劇場)』(講談社)
体を通り抜ける微風のそよぎとは
アジアには、人間は宇宙を呑み込むことができる、もしくは、人の体のなかには宇宙が封じ込められている、という考え方がある。感じ方といった方がいいかもしれない。たとえば、空海は、若い頃、四国の岬の洞窟で修行中、黒潮の向こうから上る太陽を呑み込んで悟りをひらいたというし、中国の気功術では、宇宙の気を取り込み、体中を巡らすことで心身とも健康になると説明する。こうした自分の体が宇宙や自然と通じているという感覚を欠いたままこの本『宇宙を呑む』(講談社)を手にすると、あやしいカルトの教本と見まごうばかりだが、杉浦ワールドに慣れていない読者のため、上手なレトリックが用意され、入口まで導いてくれる。レオナルド・ダ・ビンチの例の精密な解剖図をまず見せておいて。
ところで私たちの身体は、そのように臓器や器官がぎっしりと詰めこまれた、身動きならないものなのでしょうか。たとえば今この瞬間に、私たちがどうして生きているのかを考えてみましょう。まず気づくのは、呼吸をしている…ということです。ふだんはあまり意識することなく、静かに息を吸い、吐きだしている。ごく自然に外気を吸い、吐いています。そのことにちょっと注意をむけて感覚をとぎすましていくと、あらためて、自分の体内に出入りする外気の動き、鼻孔や口を出入りする微風のそよぎが感じられます
呼吸のことを、体を通り抜ける微風のそよぎとは。ファンは、この先の展開の予想にウットリし、初めての読者も先を知りたくなる。
そこではじめてダ・ビンチの解剖図の欠点を指摘する。骨や肉や臓器ばかりで、それらの中を流れている大量の空気や血液に想いがいたっていない、と。
アジァの人々がもつ身体観は、西洋の身体観とは、かなり位相を異にします。(略)器官の集積としての身体、西洋的な身体観を、あまり問題にしていない。一つ一つの臓器の働きでなく、全身の体内の流れに注目して、相互の関係を大切にとらえていきます。(略)このように考えてみると、吐き、吸いこむ…という、内気と外気を交換する流動的な動きとともに、ふわっと『宇宙を呑み』こんでしまう。そのようなことも可能なのではないか…と思えてくるのではないでしょうか
ここまで導いてから、さて、レオナルド解剖図とはまるで異質な一枚の絵を読者の眼前に広げる。鮮やかなブルーと金色を基調に描かれたインドのヒンズーの図像で、杉浦がこれまでの長いアジア図像採集行のなかで得た最高の身体図だという。
下の方から眺めると、足のあたりには白い蛇が詰まり、一層、二層と上るにしたがい、しだいに魔神や魔族や巨人族が現われ、お腹のところにいたると青空。胸からは天上界らしく、日本の人々にもなじみの図像が散見される。ヒンズー固有の動物にまたがる神々で、羊に乗り炎を背に負う冥界の主ヤマ(閻魔)、白象にまたがる武勇神のインドラ(帝釈天)、馬に乗る太鼓腹の財宝神のクベーラ(毘沙門天)などなど。そしていよいよ顔に入ると、右眼は金色、左眼は銀色。これは日本画の知識で私にも分かる。金色は太陽で銀色は月。
杉浦によると、アジアの天地創造神はおしなべて太陽と月の眼を持ち、日本神話にあっても、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが川の水でミソギをすると、左眼からアマテラスが、右の眼からツクヨミが生まれ出た、と語られているのは共通の身体観の現れ。
インドに続いて中国の道教の行者の身体図を取りあげて解読して、ラストで奈良の大仏様に触れる。
なぜあれほどまでにデカくしなければならなかったのか。世界の宗教史上でも、仏像の巨大化は群を抜いているが、この点についての説明をこれまで聞いたことがない。というより、そんな問いを聞いたこともない。杉浦の答えは、
アジアの諸宗教が見いだした『人形の宇宙像』の代表例です
宇宙像だからできるだけ大きく作る必要があったというのである。
私たちは身体を巡る、二つの空間を認識しています。その一つは、皮膚の外に向かって広がる、果てしない空間です。それに対して身体の内部、心の内奥にも、計りしれない空間の広がりがある。外宇宙と内宇宙。宇宙大巨神の体内に現われたイメージは、まさにこの、心の内奥にひろがる宇宙像であったのです
呼吸とは外と内の宇宙の相互乗り入れにほかならない。禅、相撲、武道といった呼吸法を重視する日本の伝統は、こうした思想から流れ出てきたのだった。言葉からではなく、図像からはじめて解明できる思想がたしかにあることを、このたびも教えられた。
ただ一人この道をゆく図像の行者の健脚を祈り、次はどんな成果がもたらされるのか楽しみに待ちたい。
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