赤やピンクの下着があっていいでしょ
女の下着が白一色でしかない時代があった。ピンクや赤の下着などはスキャンダルもいいとこ。下着といえば、女の人も冬ともなれば、ボタンのついた分厚いメリヤス・シャツと長ズロースをはき、その上に壁デシン(人絹のこと)のスリップか、メリヤスのシュミーズを着ていた。
そんなに大昔の話ではない。昭和三十年代初め。目の玉のとび出るほど高値の輸入品以外には、女性はみんなそんな重ったるいものを着てガタピシ動き回っていた。そこへ大阪の百貨店のコーナーに、下着の固定観念を真っ向から否定する下着デザインの個展会場が出現した。そこからはじまって女性の下着の今がある、といって過言ではないだろう。生産や販売のことではない。下着の観念を変えた人がいたのだ。
鴨居羊子。焼け跡の大阪で小さな夕刊紙の記者として出発した。大新聞ではないので何もかも自前でやらなければならない。二十代半ばの女性記者が時の外相重光葵(まもる)と単独インタビューしたりした。記者仲間に司馬遼太郎、山崎豊子、足立巻一がいて、身近に今東光がいた。大阪人は燃えていた。これから何をしたらいいか。何だってできそうだった。
やがて高度成長期の大企業集中志向で小夕刊紙は左前。ご多分にもれず、彼女も大新聞にスカウトされるが、組織の歯車でしかないことに堪え切れず、たった二年で辞職。三万円の退職金と寝たきりの母を抱え、一坪のオフィスから前衛下着デザイナーとしてデビュー。甘ったれで、泣き虫で、底抜けに楽天的で、いつまでも野良犬精神のままで街をうろつきまわりながら、華やかにも孤独な人生を全うした。ここまでが自伝「わたしは驢馬(ろば)に乗って下着をうりにゆきたい」。
ちなみに幸福だった幼女時代を回顧したもう一冊の本「わたしのものよ」のあとがきに、人生へのあとがきみたいに、絶滅してしまった家族に向けて書く。
今度生まれ変わったらみないっしょに住もうよ。
焼け跡から生きてきた同世代の女性には、ご自分の自伝と重なるように思えるのではあるまいか。
【文庫版「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」】