書評
『会話を楽しむ』(岩波書店)
水のように話す
たいへんな恋愛ブームだそうで、本屋の棚には恋愛論がめじろ押し。デートの最中、話題につまったら、しらけたときどうするか、なんてノウハウも巷に溢れているが、加島祥造『会話を楽しむ』(岩波新書)、これはもっと役に立つ。もちろん夫婦、親子、友人間、商談にも。ただの「お喋り」を「輝かしい会話」に変える秘訣に満ちた本である。「私は人と人との会話を、かなりいいかげんなものだ、と感じている。すべての会話は、会話を構成しない――といったら、言いすぎだろうか」。著者が日本で最も荘子的人物とする辻まことの言である。きわだった自由な思考と行動に生き、それをユーモアと諷刺で表わした彼にしてこう述べた。
もちろん、本書は常套(じょうとう)句による平凡で陳腐な日常会話を軽蔑してはいない。沈黙が生きている状況もあるだろう。その効用も心得ている。しかしそこにとどまるのでは、いのちの味わいというものがないではないか。
日本人は寡黙のなかに深い意味を伝達しようとし、明るい派手な表現より地味で簡潔な表現を好んだ。「道」と名のつく諸芸は語り得ないところを伝達することをもって「道」としてきた。しかし「私たちの会話の伝統はいまや美質としての内的価値を失い、形式と表現不足と閉鎖性のなかで、活力のないものになってはいまいか」と著者はいう。
では何が輝かしい会話を妨げるのか。著者は専門である英文学からも縦横に引き、「旗本退屈男」や落語の「らくだ」まで登場させて探っていく。
まず人間タッチの「無駄口」が足りない。実用一点張り。妻が何かいえば「すぐ生意気言うな」。独演家と相槌屋。退屈な話をがまんするクセ。相手の言葉を上手に遮る芸がない。ネタを仕込む努力の不足。描写的話法の欠如。耳がいたい、いずれも思いあたることばかり。
人を退屈させるお喋りについては二節が割かれている。サマセット・モームの短編『冬の船旅』のミス・リードの話が面白い。
テーブルの会話をだらけさせたことがないと自慢する中年女性がいた。ドイツの客船で船長以下、みな自分との会話を楽しんでいると思い込む。そして船長の歌うタンホイザーの「夕星の歌」にうっとり。ところが、船長の方はドイツ語で「お、あれはなんたる退屈女だ!……これ以上つづいたら、あの女をのろい殺しちまうぞ!」と歌っていたというわけ。
そして、会話にとって一番大切なのは差別なき「人間対等観」と「開いた心」であるという。
会話には当意即妙の閃きや、空想力や創造性、経験や体験からくる他への共感力、情緒やユーモアへの転化など、数々の要素がその場に応じて織りこまれてゆくが、それらは己れひとりの頭脳の働きだけでは生じない。共に楽しむ開いた心が第一の条件なのだ。
競争社会はどうしても閉ざす行動を誘発し、会話を衰えさす。水のように緩急自在、自然に溢れて流れだし、興の趣くままに自分が運ばれ、ときに滝となってころげ落ちる喜びに満ちた会話。それを著者は女性性に深く根ざすと分析する。活気と交流に満ちた本だ。
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