「冗談は芸術の尖兵」と確信
高校入試、大学入試、就職試験、どれにも失敗する。その失敗のたびに、自分の会いたかった人に近づいていった。ありがたいことだな、しあわせなことだな、と思う。著者はまずそう書き始める。「ひょっとすると、この本は幸運がめぐってくる本かもしれませんよ」。さすがに上手な「まえがき」ですね。南伸坊は一九四七年生まれ、典型的な団塊の世代である。イラストレーターだが、そもそもそういう言葉が生まれてくる時代の育ちである。これを書いている私は十歳年上、当時その世界にはまさになんの関係もなく、長い医学生時代を過ごしていた。
『話の特集』が創刊された一九六六年、著者は工芸高校二年生、でもこれを見てショックを受ける。高校生で新しい動きにちゃんと目が行き届いていたわけだから、世間に適合していないようで、肝心のところはしっかり押さえていたとも言える。この雑誌は「業界誌や専門誌の才能と水準を、いきなり一般雑誌に一挙に持ち込んだ。このことで、その後の日本の雑誌文化が、大きく舵をきったことを、私はもっと世間は知っているべきだと思う。」この雑誌のアートディレクターは和田誠、表紙は横尾忠則、カメラマンは篠山紀信、立木義浩、調べてみると、それぞれ私とほぼ同世代、おかげで学生時代の私が、いかにそうした世間と隔絶されて生きていたかを知った。当時の世間は広かったんですね。
著者はこのあと芸大受験を諦め、一九六九年に美学校に入る。なぜ美学校なのかというと、この学校は無試験だったからである。最初に受けたのは木村恒久の授業、面白かったという。著者は「面白い」を追求する人である。でもこれは意外に危険な言葉でもある。私は「解剖は面白い」という発言をして、抗議の電話を受けたことがある。不謹慎だという抗議である。さらに面白いは笑いと結びつき、笑いはしばしば裏に傷つく人がある。だからテレビのような公開の笑いは、内輪ネタになっていく。でも著者は「冗談は芸術の尖兵(せんぺい)だ」と信じているのである。
この学校で著者は「毎日『知恵熱』が出そうな刺激の中にいた」と書く。「美学校の講義は、それぞれの先生方が、それぞれに個性的なスタイルでもってそれぞれにめちゃくちゃおもしろかったのだったが、私にとっては、なんといっても赤瀬川(原平)さんの講義が生涯最高の名講義ということになる。」それがどんな講義だったかは、本書を読んでいただくしかない。当時の世間は大学紛争の嵐の中だった。私自身はその嵐の中でもみくちゃになっていたから、クソッ、そんな世界があったのか、ああ損した、と若年の不明を恥じるばかりである。
このあと著者は雑誌『ガロ』の編集に携わるようになる。この雑誌を始めた青林堂の長井勝一のことが詳しい。「私が青林堂の社員になって長井さんに教わったこと。それは『優れた作品に対する感謝』の気持ちだ。『楽しませてくれた人を尊敬する』気持ちである。」こう書くとどんなまじめな人かと思われるだろうが、「満州の前線から、日本軍の終戦を素早く察知して軍用銃をちょろまかし、雲を霞(かすみ)と日本へ逃げ帰ると、『モーゼルの勝ちゃん』と二つ名前で呼ばれる、ヤクザの用心棒におさまっていた」人なのである。この人がなぜマンガ雑誌を始めることになったか、知りたい人は本書を読んでいただきたい。
本書の多くのページがイラストに割かれている。それを見ているだけでも、損はないと思う。私は老眼だから、倍率二十倍の虫眼鏡で必死に見てしまった。