書評

『パスカルの恋』(朝日新聞社)

  • 2023/07/19
パスカルの恋 / 駒井 れん
パスカルの恋
  • 著者:駒井 れん
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(206ページ)
  • 発売日:2003-08-06
  • ISBN-10:4022578653
  • ISBN-13:978-4022578655
内容紹介:
人と人のそこはかとない関係と「新しい愛のかたち」を澄明な文体で描く。第14回朝日新人文学賞受賞作。

待つこと 食べること

父方の祖父は歯科医だった。元歯科医院だったその古家に未婚女性がひとりで住んでいる。大学を出てまもない年齢という。そこへ毎日きまった時間に男がやってきて、彼女の作った夕食を一緒に食べ、ときには愛し合いもして、どこかにある自宅に帰って行く。小野小町のもとに毎夜ひたひたと足音を忍ばせて通う深草少将もどきに、男はそんな通い婚を続けている。

女はこのあいだまで大学の研究室の臨時職員をしていた。折から教授の海外出張とあって、教授の帰国までは休暇中。男の訪れを待って外出しないので、ますます引きこもりがちな王朝の女人めいてくる。

彼女のもとに通いながら自分の生活背景を見せたがらない男はなんとなく影がうすい。たぶんこの小説が『婦系図』的女系相続の構造の上に成り立っているからだろう。そのせいか、影がうすいのは藤沢さんという名の男にかぎらない。孫娘に遺産と古家を残して死んだ祖父にせよ、早世した父にせよ、私生児だったという母の父に当たる人物にせよ、おぼろげな記憶のなかの過去の人でしかない。総じて男は、現実に生きている母の再婚相手の義父にせよ、彼女の恋人の今様深草少将にせよ、影がうすい、というよりは不在の人という印象がぬぐえない。

ひきかえ女性登場人物は概しておとなの女で、母といい、藤沢さんの元妻といい、藤沢さんの義母に当たる婦人といい、見るからにさっそうとしてステキなのだ。一例が藤沢さんの義母の河村さん。還暦に近い年格好の女《ひと》である。

……門のところで河村さんを見送り、その後ろ姿をぼんやり見ていた。すっとした後ろ姿だった。スーツや靴がいいのはもちろんだけど、歩き方がきれいなのだ。じぶんがうつくしいということを知っている、ひとにどう見られているかもわかっている、自身にあふれたひとの歩き方だった。

後ろ姿ながらどうしてカッコいい。ひょっとするとこの物語は、男がいない、というよりは男を必要としないことを前提にした、アマゾネス女人国の話ではないのか。

男は影がうすく、女がさっそうとしてたくましい。男女の役割が逆転している。のみならず、時間もさかさまに流れている。娘が「母を嫁に出す」といったような老幼逆転の表現がしきりに顔を出す。これが嵩じて、死んだ祖父や父をはじめ、生きてるはずの藤沢さんでさえ、ヘンリー・ジェイムズか吉田健一の小説ばりに幽霊として元歯科医院の古家に巣くい、しかもそれらが一斉に大洋的退行を起こしてみるみる小さくなってしまい、果ては胎児となって彼女の胎内にもぐりこむ。つまり女は妊娠してしまうのだ。

大学の臨時雇いは教授が帰国する翌年九月までの一年足らずがお休み。これは、胎児が成熟して出産するまでのインキュベーション(引きこもり=抱卵)の期間に相当する。時間がさかさまに流れているので妊娠は最後に露見するが、象徴表現的には、休職期間に起こった藤沢さんをめぐるごたごたはすべて一年前の教授渡米の頃に(受胎として)はじまり、妊娠が現実化した教授帰国前後に出産となるのでなくてはならない。だから小説は藤沢さんが「門」を出て、小さく小さく遠のいていくところで終わる。

小野小町は穴なし小町。受胎出産はありえそうにない。とはいえそれは男系相続の論理が捻出した伝説で、小町伝説は女系相続の素顔をはぐらかす仮面だったのかもしれない。それらしい手応えが男の側にある。藤沢さんはかたつむりの単性生殖の話をしたり、別れた妻とこしらえた子供のことにふれて、「遺伝子の鎖のなかにすでに僕ははいっている。だからもう、それでいいと思ったりもするな」、といったりするのである。

男は種馬で、精子をもらってしまえばもう用済みなのか。女系相続の論理からすればそうなる。女系相続のなかで生きるためにはしかし父なし子を産むことが女として不可避のイニシエーションになる。げんにこの小説の女性たちは大方、父なし子を産むか、夫がいてもさっさと死別・生別している。

表看板は恋愛小説ということだが、どうも一筋縄では行かない。それでこちらとしては新人賞受賞をことほげばそれでお役目ご免なのだが、最後にひとつだけ勝手な注文を。

食べ物の話がどっさりあって、どれもおいしそうだ。でも一、二をのぞけばフランス料理か懐石っぽくて、食べ物にくさみがない。食べ物は、たとえ新人の新作のようにピカピカに真新しくても、放っておけばいつかは腐る。腐ったものは食べられない。ところがわざと腐らしておく、くさいくさい発酵食品はめっぽうおいしい。恋人と食べる朝食の献立には、くさやの干物とまではいわぬとしても、せめて納豆があってほしいものだ。
パスカルの恋 / 駒井 れん
パスカルの恋
  • 著者:駒井 れん
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(206ページ)
  • 発売日:2003-08-06
  • ISBN-10:4022578653
  • ISBN-13:978-4022578655
内容紹介:
人と人のそこはかとない関係と「新しい愛のかたち」を澄明な文体で描く。第14回朝日新人文学賞受賞作。

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初出メディア

一冊の本

一冊の本 2003年09月号

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