参勤交代、驚くべき旅の真の姿
日本の現状は「参勤交代」が作った面がある。江戸時代、清(中国)の人口は3億人で首都北京に百数十万人がいた。日本は、10分の1の3000万の人口であったが、江戸にほぼ同じ100万人が暮らしていた。この恐るべき、トップ都市への集中の原因は、参勤交代に他ならない。全国の大名が将軍のいる江戸に交代で参勤して暮らす。国の富をここで莫大(ばくだい)に消費する。それで日本は、ロンドン、パリより大きな都市を持つ小さな島国となった。常に大名の半分が江戸ずまいで人質状態だから、反乱がおきない。平和になった。全国の武士が江戸で交流し、知識がすばやく交換されるようになった。学問や文化、法律に統一性が生じ、移動が頻繁だから、交通も便利になった。それだけではない。都市民の割合が高くなると、識字率が上がる。浮世絵などの江戸文明の芸術が花開いた。しかも、その主たる担い手は、支配者でなく都市民となった。アジアの中で、かつて日本が素早く先進国に入ったのは、参勤交代制度のせいでもある。
ところが、この参勤交代の「旅としての実態」は、さほど研究がない。むしろ近年、映画「超高速!参勤交代」などで面白く描かれるようになった。本書は、1841年に、三河吉田(愛知・豊橋)藩が行った一回の参勤交代の細部を検証したもの。松平信宝(のぶとみ)という若殿様が、藩主の代わりに初めてお国入りすることになったが、几帳面な武士がいて、これでもかというほど緻密な記録を残しており、この研究が可能になった。
映画でない実際の参勤交代も面白い。まず殿様は必ず事前に菩提(ぼだい)寺に参詣してから出発する。旅行の統括は「目付」が行い、宿割(やどわり)(宿泊手配)・宿払(やどばらい)(支払い)・船割(ふなわり)(船の手配)の三つの係が設置される。この藩では藩主の初国入りは415人、それ以外(帰城)は265人の大名行列。この時は345人の行列を組んだ。家老から徒(かち)までの士分54人、戦闘要員の足軽32人、荷物運びの中間(ちゅうげん)259人である。江戸上屋敷の2階に「参勤交代対策室」みたいな部屋がおかれ、人材派遣業者の人宿(ひとやど)・三河屋との相談が始まる。実は、大名行列は、かなりの部分、アウトソーシング(外部発注)で行われていた。宿泊と荷物運びの手配を人宿が請け負ったのである。
だが、実際はいくつも難題が起きた。藩のある老幹部は「馬に乗れない。駕籠(かご)にしてくれ」と要求。先例と格式と費用のはざまで担当者は四苦八苦した。表向きは騎馬、内実は駕籠という日本的解決法で乗り切っている。また大名行列のシンボルの槍(やり)の鞘(さや)が古くなっていた。業者の入札にかけたが、藩主が「豪華にみえるよう裏まで鳥毛を植えろ」と指示。15両以上もかかってしまった。さらに藩祖の「知恵伊豆」(松平信綱)使用の虎皮の鞍覆(くらおおい)で移動して、道中と領民に若殿様を格好よくみせようとしたら、老中から贅沢(ぜいたく)だからダメと禁止された。宿の予約がおくれて、他の大名に宿をとられてしまうこともおきた。
費用的なことをいえば、道中の武士の宿泊・食事代や船賃は、チケット制になっていて、札が武士たちにくばられ、あとで宿払の係がそれを回収して精算していた。雨天などで日程が延びると、宿泊費がかさむ。人宿はきっちり追加料金を請求してくるので、大名行列が高速移動を求められたのは、事実である。この藩の参勤交代は総額で6、700両かかったらしい。ほかにも、大名行列の宿場での宿泊実態や忘れ物への対処法など、本書の細部は楽しい。
江戸社会は、武士の義務的移動が特徴の社会である。参勤交代や転封で、武士が巨額な費用をかけて移動しなければならず、それで巨大都市のある、制度の統一された、国民の識字率も高い国が江戸時代にすでにでき、現代日本の前提条件を提供した。これは、全国統一の法治国家や近代軍隊や先進工業国をつくるのには、よかった。しかし、本書を読むと、工業化段階までは、江戸社会が日本を先進にしてくれたが、21世紀に入った現在では、江戸の武士社会のありようが、かえって、この国の進路の足かせになっていることにも気付かされる。
江戸の武士社会は永続が価値であった。吉田藩でも、50家ばかりが17世紀はじめの「島原の乱」に従軍したという理由で、あらゆる優遇をうけていた。長くその組織にいる者(譜代)が、高い地位に座れる条件になっていた。その時代に必要なスキルをもった者が高い地位に座れる組織ではなかった。時代の変化にそって、組織の姿を柔軟に変えるのは不得意で、先例や格式、伝統と慣習に従うお行儀教室的な組織になりがちであった。また、すぐに上の指示を仰ぎたがり、指示を待つので、意思決定から実行までが遅かった。本書は泰平の世に弱点を持ちはじめた武士社会の様相もみせてくれる。
IT、人工知能、急速な人類社会の変化のなかで、日本が先進国の座から降りつつある今、日本をかつて先進国にした参勤交代の真の姿の細部をみておきたい。