書評

『大岡昇平の時代』(河出書房新社)

  • 2019/10/25
大岡昇平の時代 / 湯川豊
大岡昇平の時代
  • 著者:湯川豊
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2019-09-03
  • ISBN-10:4309028241
  • ISBN-13:978-4309028248
内容紹介:
昭和という時代を「文学」とともに生き、背負った作家・大岡昇平。文学の、そして文学者という存在の本質を現代に問う、決定作!

愛するものについてうまく語れない

『俘虜記(ふりょき)』(一九四六)で始まり、『昭和末』(一九八九)で終わる、昭和という時代を、昭和の作家が身を賭して残したものを、現在の日本文学は受け継いでいるか。昭和が終わってさらに三十年が経つが、大岡昇平の文学的業績はその重要さに拘(かか)わらず未だ検証されないままである。二〇一九年の今こそ、大岡文学の全エッセンスを正確に抽出し、我々の「現在」としてくれる「仕事」がまたれるのである。

若年期のスタンダール、大岡昇平耽読の日々を送ったスタンダリアンであり、『須賀敦子を読む』『星野道夫 風の行方を追って』にみる優れた人間観察者、『イワナの夏』『夜明けの森、夕暮れの谷』の、鳥と虫の目を持つ自然観察者にして当代一流のリズール(文学観察者)である著者による「仕事」がここにある。

これは評伝でも論考でもない。自分とは何か、自分は何を知っているか、と問いを発し続けながら明察と知恵に辿り着くエセーの柔軟な思考と、犀利(さいり)な文芸批評とが、時計の歯車のように嚙み合って展開するムーヴメントで、そこに大岡昇平の「時代」が、いや「現在」が実現する、これはそのような本である。

大岡昇平は一九四四年(昭和十九)六月、三十五歳で臨時召集され、妻と幼い二人の子を残して出征、フィリピン・ミンドロ島に送られた。目の前には確実な死があった。しかし、翌年一月、米軍の俘虜となり、八月十五日の敗戦を挟んで十二月に帰還した。俘虜としてほぼ十カ月の体験の記録が『俘虜記』である。

昭和時代を生き、昭和時代の文学を創造した作家の、最初の著作がこの戦争の記録だった。一個の深い精神が戦争を生きのび、帰還し、そこから戦後の文学が展開したのは、偶然そうなったにすぎない、と片づけることが私にはできない。時代が文学のなかに生きるために、その偶然が必要だった、と思われさえするのである。

湯川氏は、『俘虜記』を日本の戦後文学の中で群を抜いた作品と位置付けた上で、『俘虜記』が大岡昇平を導いて行った先を尋ねる。

一つは、「包括的で精密な敗戦の記録」であると共に、「死んだ兵士たちへの鎮魂歌」としての『レイテ戦記』へ。

一つは、一筋縄ではいかない歪んだ社会・近代日本の解明とその小説化としての『天誅組』『堺港攘夷始末』等の歴史小説へ。

一つは、『野火』『武蔵野夫人』『花影』『事件』等のロマネスク作品群へ。

『武蔵野夫人』は復員者の青年と人妻の不倫の恋をテーマにしたロマネスク(恋愛小説)だが、アランの用法(ロマネスク=小説的)に従えば、『野火』もまた人肉食いとキリスト教の神の問題を扱うロマネスクである。

ほんとうのロマネスクの小説の伝統がないところで、「ロマネスクの恢復(かいふく)を図り、同時にそれに苦杯を飲ませる」(大岡)。(略)『武蔵野夫人』は、そのような場所での挑戦だった。

湯川氏は、大岡の漱石論に拠るかたちで、漱石の小説作品が「真の意味での言文一致体」の完成であり、小説の文体の完成とは、社会と生活に対するわれわれの観点の安定にほかならない。観点の安定とは、時代が小説を共有する、ということである、と述べた上で、――では私たちの時代、二〇一九年ではどうなのだろうか、時代が小説を共有しているだろうか、と問い掛ける。

この問いには、先に挙げた大岡の三つのジャンルにおける「仕事」こそ、敗戦後の昭和の新しい文体の創出であり、我々はそれを共有すべきだという思いが込められている。

恋愛小説に紛うような書き方で書かれた名作『花影』が、西欧的ロマネスクでなく、『源氏』や『新古今』にみる「もののあはれ」の系譜・花柳小説の掉尾(ちょうび)を飾るものとして、大岡文学の深さと幅広さを顕彰する緩やかな章もある。

また、中原中也論や富永太郎論を通して、純粋な魂、無垢なる“少年”の行方を追い、自分の青春とは何だったか、と生涯問い続けた大岡昇平の、一番奥に隠れたものに迫っていく湯川氏の筆致は、充分抑制されつつ、昂揚し、時になつかしさの翳りを帯びているようにも見える。

そして、やはり最後はスタンダールである。

大岡昇平は亡くなる直前、連載予定の「愛するものについてうまく語れない――スタンダールと私――」の第一回の原稿十五枚を雑誌『海燕』に渡した。これが絶筆となった。タイトルはロラン・バルトの講演草稿の題名からの借用で、バルトは講演直前に急死している。

『昭和末』の終わりに置かれたこの一篇に触れた湯川氏の文(「『昭和末』をめぐって」)は、坦々と乾いているが、揺れるような思いが籠っているように感じる。ここには、氏の大岡昇平とスタンダールに向けられた同質の愛がある。エセーの真髄である。
大岡昇平の時代 / 湯川豊
大岡昇平の時代
  • 著者:湯川豊
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(312ページ)
  • 発売日:2019-09-03
  • ISBN-10:4309028241
  • ISBN-13:978-4309028248
内容紹介:
昭和という時代を「文学」とともに生き、背負った作家・大岡昇平。文学の、そして文学者という存在の本質を現代に問う、決定作!

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年9月29日

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