書評

『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯』(白水社)

  • 2019/12/18
かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯 / ウラジーミル・アレクサンドロフ
かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯
  • 著者:ウラジーミル・アレクサンドロフ
  • 翻訳:竹田 円
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(366ページ)
  • 発売日:2019-09-27
  • ISBN-10:4560097224
  • ISBN-13:978-4560097229
内容紹介:
アメリカン・ドリームをモスクワで叶えた黒人フレデリック。ナイトクラブの興行で巨万の富を築いた彼を革命が襲う――その栄光と破滅

運命に抵抗し自由求めた「黒いロシア人」

波乱万丈の一生を送った人間を形容する言葉として、「数奇な運命に弄ばれた」というのは常套句になっている。しかし、『かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた』で描かれている、原題では「黒いロシア人」ことフレデリック・トーマスの物語について言うなら、その言葉は半面の真実でしかない。

フレデリック・トーマスは、一八七二年にミシシッピ州で農場を所有している夫婦のあいだに生まれた。両親は南北戦争まで黒人奴隷だった。白人との土地をめぐる裁判沙汰で、トーマス一家はメンフィスに引っ越すが、そこで父親が惨殺されるという事件があった後に、フレデリックはシカゴに出てレストランの給仕、さらにはブルックリンでホテルのベルボーイとして腕を磨いた。より大きな自由を求めた彼は、そこからロンドンに渡り、さらにはヨーロッパを転々とした後、ロシアにたどりつき、モスクワで娯楽庭園や劇場の経営者にまでのし上がって、興行師としての才を発揮し、富を築いた。しかしロシア革命の嵐に巻き込まれ、すべてを失ってオデッサからコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に逃げのびるが、そこでふたたびナイトクラブの経営に乗り出し、借金に追われて、最後は一九二八年に債務者監獄で獄中死した。こうまとめてみただけでも、なんとも壮絶な生涯で、フレデリックが何十人分の人生を一人で生きたような錯覚に読者はとらえられてしまうほどだ。

著者のウラジーミル・アレクサンドロフは、イェール大学で長らく教鞭(きょうべん)をとってきたロシア文学研究者で、彼が出したトルストイやナボコフの研究書は、石を整然と敷き詰めたような硬質の論理と文体で書かれている。その硬派の文学研究者が、畢生(ひっせい)の作としてあたためてきたのが、この歴史に埋もれたままになっていた男の奇矯な生涯を描く伝記であり、しかもそれが伝記にふさわしい抑えた筆致ながらも典雅と言っていいほどの文体で書かれているのだから、これは驚くしかない。

本書の読みどころのひとつは、一人の人間がたどった軌跡を追いながら、それがそのまま世界的な歴史のドキュメンタリーになっている点だ。アメリカ南部での人種差別の状況、日露戦争、第一次大戦、ロシア革命、ボリシェヴィキの進攻が迫ったオデッサでの混乱、トルコの歴史の変化……こうした社会の大変動にあって、個人の運命がいともたやすく翻弄(ほんろう)されていく姿を描く際に、著者は怒りをあらわにすることはしない。しかし、それだけに、肌が黒いことを問題にされないロシアでも、「人種に無関心な代わりにロシア人には別の偏見があった。フレデリックはこれまでヨーロッパのほかの国で、その偏見がこれほど悪意に満ちたかたちをとって現われるのを見たことがなかった。それは反ユダヤ主義だった」という指摘や、「黒人がアメリカで人種差別的な分類を免れられなかったように、新生ソヴィエト国家ではすべての人間が社会経済的階級によって分類されるようになった。一見似ていないように見えて、マルクス主義者や共産主義者のいう『階級』という概念は、『人種』のレッテルとよく似た歪(ゆが)んだはたらきをした」という指摘は、いっそう重く響く。

もちろん、そうした世界史レベルの大きな物語群の他にも、本書には無数の人々の小さな(それでいて印象に残る)物語群が書き込まれている。フレデリックがモスクワに呼び寄せようとした、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンだったジャック・ジョンソンをめぐる逸話、皇后アレクサンドラに取り入って帝国を牛耳った怪僧ラスプーチンのどんちゃん騒ぎでの破廉恥なふるまい、そして若いロシア貴族の女性が「女給」として働いていたコンスタンティノープルでの、昔日の恋愛映画を観るような哀切極まりないエピソード。「複数の外国人が、亡命ロシア人将校がレストランの席からさっと立ちあがり、厳粛な面持ちで女給の手に口づけするのを目撃している。将校と女給はかつてまったく違う世界で暮らしていたときの知り合いどうしだったのだ」

そして、本書を読んでなによりも印象的なのは、きびしい運命と歴史の流れに翻弄されながらも、運命を甘受することなく、それにどこまでも抵抗して自由を求めようとした、フレデリック・トーマスの姿だ。圧殺的で不条理な世界の中で、一個人ができるのは、世の中の裏をかいてただしぶとく生き延びることしかない。機を見てロシア国籍を取得し、それをアメリカ当局に隠していたのが仇になり、最後は無国籍者となったフレデリックの生き様は、移民という存在が根源的に持つたくましさを映し出している。それはまた、亡命ロシア人二世としてアメリカで生きてきた著者が共感を寄せる、裏返しになったもう一人の自分であったに違いない。
かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯 / ウラジーミル・アレクサンドロフ
かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた:二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯
  • 著者:ウラジーミル・アレクサンドロフ
  • 翻訳:竹田 円
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(366ページ)
  • 発売日:2019-09-27
  • ISBN-10:4560097224
  • ISBN-13:978-4560097229
内容紹介:
アメリカン・ドリームをモスクワで叶えた黒人フレデリック。ナイトクラブの興行で巨万の富を築いた彼を革命が襲う――その栄光と破滅

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毎日新聞 2019年12月1日

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