書評
『赤い館の秘密』(東京創元社)
推理小説が好きだったお父さんのために
A・A・ミルンの『赤い館の秘密』(一九二一)は、子供向きの本でしか読んでいない。昭和三十年代に講談社から、大人のミステリを少年少女向けに書き改めた名作推理全集が出ていた。黒っぽいハードカバーの装丁で、ディクスン・カーの『曲った蝶番』が『動く人形のなぞ』、アガサ・クリスティーの『ビッグ4』が『恐怖の四巨人』などという題で収録されているやつ。たしか、あの一冊で読んだのだと思うが、自信はない。とにかく、少年物で読んだというおぼろな記憶があるのみで、あとは何ひとつ印象に残っていないミステリなのである。こういう印象の稀薄さは、わたしだけのことではないらしい。随分と多くの推理小説好きと話してきたけれども、いまだかつて、『赤い館の秘密』こそ最高のミステリである、などというファンにはお目にかかったことがない。もっとも、逆に、つまらないという感想を耳にした覚えもない。現代のミステリ・ファンの間では語られることの少ない、いわば無視されているに等しい作品といってもいいだろう。
もうひとつ、『赤い館の秘密』と聞くとすぐに思い起こされるものに、レイモンド・チャンドラーの評論『簡単な殺人法』がある。リアリズム探偵小説宣言ともいうべきこの優れた評論において、チャンドラーが、およそ納得性の乏しいミステリの実例として『赤い館』をあげ、こてんぱんにやっつけていることは、あまりにも有名だ。
が、以上のような事実にもかかわらず、『赤い館の秘密』の名声は、少しも損なわれていないように思える。今もなお世界ベストテン級の名作とされ、古典中の古典と折り紙がつけられている。
考えてみると、不思議な作品である。
で、その実態を知りたくなって、創元推理文庫版(大西尹明訳)を買ってきて読んだ。
感想は? と訊かれると困ってしまう。困りましたよ、これは、本当に。なんというか、なんとも答えようがない。
とにかく、チャンドラーの指摘が全面的に正しいことだけは確かである。チャンドラーは、『赤い館の秘密』の欠陥をムキになってあげつらっているのではない。この作品そのものをバカにし、おちょくっているのだ。このバカにし方も、すべて正しい。ひとつとして無茶なことをいっていない。彼は、しごく当然のことを述べているにすぎない。
『赤い館の秘密』は、まずトリックが駄目である。無茶なプロットに無茶なトリック。論理だのリアリズムだのということばを持ち出すまでもない。つじつまが合わなすぎる。チャンドラーは、この点を七個所に渡って論理的に責めたてているが、むしろ弱い者いじめという印象で、『赤い館』に同情したくなるほどだ。そんなに赤子の手をねじるような真似をしなくても、どうせやるならクリスティーかクロフツあたりの代表作を槍玉にあげればいいのに……
次に、探偵役のアントニー・ギリンガム以外の登場人物におよそ魅力が感じられない。描きわけが雑で、区別がつかなくなる。雑といえば全体の作りも雑で、小説としてのこくがなく、ごく趣味的な犯人当てを読まされているような気分に陥る。
もちろん、おもしろい部分もある。でなければ、ベストテン級の傑作などと称揚されるはずがない。いい例が、ところどころに見られるユーモアである。とくに、失踪現場からぬけぬけと出現する抜け穴と、それをめぐるギャグはかなりいい。それはそうなのだが、しかし、このユーモアを楯にして「古今を通じての三大探偵小説のひとつ」(アレキサンダー・ウールコットの賛辞)などと突っ張るのは、どう考えても無茶な話である。読者はユーモアを求めてミステリを読むのではないからだ。
この程度の作品が、どうして、現代に至るまで名声を誇り続けてきたのだろうか?
理由はいくつか考えられるけれども、一番のものは、作者が、ミルンだったから、ということではないだろうか。『熊のプーさん』で著名な人気童話作家、劇作家のアラン・アレキサンダー・ミルンの書いたミステリだったからだろう。他の文学ジャンル(とくに純文学)で名をなした人が、趣味として推理小説を書く。優れたものであった場合はむろん絶賛、そうでない場合でも専業推理作家には書けない異色の風格を持った作品として大いに評価されるのは、洋の東西を問わず、ミステリ界全般に見られる傾向である。『赤い館の秘密』が無名の新人の書いた作品であったなら、はたして、これほど有名になっていたかどうか。
閑話休題。これまで、『赤い館の秘密』に対して相当にひどい悪口を並べたてたけれど、これでも、いちおう客観的な見方をしているつもりなのである。実をいえば、わたし自身は、このミステリが好きなのだ。
それは、ミルンの自伝『ぼくたちは幸福だった』(一九三九/研究社)を読んだせいである。自伝の傑作と呼ばれるこの本を読んで驚かされるのは、ミルンの異常ともいっていいぐらいの父親への愛情である。本全体を通して、彼は教師であった父に、尊敬と感謝のことばを述べているのだ。そして、『赤い館の秘密』の最初のページには、この父ジョン・ヴァイン・ミルンに対しての献辞がのっているのである。
〈お父さま
本当に心からいい人の例にもれず、推理小説とくるとお父さんは目がありませんし、それにどうやら、この種の本の数はたんとないようだな、なぞと不満に思っていらっしゃるようですね。だから、あれほどお父さんに恩を受けていながら、そのお返しとしてぼくに出来る精一杯の仕事といえば、推理小説をやっとひとつ書くことなんです。それをこうして、とてもここには書ききれないほどの、お父さんへの深い敬愛の念をこめていまようやく書きあげました。A・A・M>
つまり、『赤い館の秘密』は、父親のために書かれたミステリなのである。犯人当てみたいなのも道理で、極端にいえば、父と子の探偵ゲームなのだ。作者は、ミステリ・ファンのことなど全然気にかけなかったかもしれないのだ。
そうか、『ぼくたちは幸福だった』のあのお父さんのために、ミルンは懸命にこの不細工な、ミステリを書きあげたのだな、と思うと好きにならずにはいられない。ただし、それは推理小説としての評価とはあまり関係のない話である。
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