書評
『2002年のフェアプレー W杯日韓共催とFIFAの政治力学』(株式会社共同通信社)
W杯に見る政治の駆け引き
スポーツに国境はないと言う。日本人が好きな言葉だ。しかしスポーツが一たび国境をこえる時、そこには国家が聳(そび)えたち否も応もなく政治の介入を許すことになる。日本人はこれを嫌う。フェアプレーの精神のたてまえとドロドロとした利害のホンネとが、これほどみごとに表裏一体化している世界もめずらしいのに。その意味では、今や国際化を果たしたスポーツはいずれも、最も冷徹な国際政治の現実にさらされる宿命を持っているに違いない。なぜ二〇〇二年のワールド・カップ(W杯)が日韓共催になったのか。当時の日本の一連の報道では、日本の情報不足とサッカー協会の読みの甘さばかりが指摘された。
本書は、国際サッカー連盟(FIFA)の動きを長くウォッチングしてきた著者が、サッカーを焦点とする国際政治学に挑戦した好著。まず何よりもスポーツをそしてサッカーを愛してやまない雰囲気が伝わってくる。それでいて筆が感情に流されていない。
登場人物は、日本を除けばいずれ劣らぬやり手の精力家ぞろい。FIFA会長のアベランジェ(ブラジル)に、副会長ヨハンソン(スウェーデン)、そして副会長鄭夢準(韓国)。それぞれが、個人の名誉欲やビジネス欲を背景にしながら、国家のそして地域の利害を重ねあわせて、サッカー政治を形作っていく。
しかもこれまた日本を除けば、個々人が野心に裏打ちされた卓越したリーダーシップを確立している。地域別の理事をながめてみると、いわゆる世界の大国が少ないことに気づく。そもそも日本がこの半世紀というもの、何かと言えば頼りにしているアメリカがいないではないか。なるほどと合点がいった。南米にアフリカ、そして日本を除くアジア、それに欧州。いずれも小国なだけに政治的駆け引きにはたけている。ルールなど、あってないようなものだ。負ければ後がないという戦いをくり返しているのである。こういう修羅場に、やはり日本人は徹底的に弱い。すぐに「まっ、いいか」となってしまうのである。したがって南米対欧州の対立にまきこまれたあげく、なすすべもなく共催決定をのまされたのも、むべなるかな。
国際政治の現実的な技法を、よほどしっかり学ばないと、サッカーの逆転劇は他のスポーツでも、おそらくドミノ倒し的に生ずることになろう。
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