書評

『キッチン』(角川書店)

  • 2020/04/03
キッチン / 吉本 ばなな
キッチン
  • 著者:吉本 ばなな
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(200ページ)
  • 発売日:1998-06-23
  • ISBN-10:4041800080
  • ISBN-13:978-4041800089
内容紹介:
唯一の肉親であった祖母を亡くし、祖母と仲の良かった雄一とその母(実は父親)の家に同居することになったみかげ。日々の暮らしの中、何気ない二人の優しさに彼女は孤独な心を和ませていくのだが……。
主人公桜井みかげは孤児である。両親は若死しており、育ててくれていた唯一の肉親の祖母が他界したところから物語ははじまっている。

作中人物としてなぜ彼女は孤児でなければならなかったか。家族のなかに少女を置いて描こうとする時、いつのまにか絡まってくる日本的な人間関係、あえて言えば前近代的、過度に情緒的、そして相互干渉的な関係に足を取られるわずらわしさから作者は身を避けたのだ。こうした関係を肯定してしまえばホームドラマになるし、否定すれば自我との葛藤という迷路に入りこんで、陰陰寂寞とした心境小説が生れてきたりもするのだから。

主人公の恋人になりかかっている田辺雄一は母子家庭に育った大学生である。ただし母親は性転換をした父親なのだ。

こうした設定は、主人公を現代という名の表層に漂う存在として描くための装置になっている。文章から文章に移る呼吸には、既成の作法を乗り超えるリズムがあって、読むものを引込んでゆく。主人公に「何だかすごく天涯孤独な気持になった」と言わせる時、作者はマスコミに汚されてしまった言葉を逆手に取っている。才能のない者が真似したらひどい結果になりかねない領域を、吉本ばなな氏は颯爽とステップを踏んで闊歩してゆく趣がある。はじめて主人公の前に現れた田辺雄一の母親を観察する目は、物体の特性を研究する科学者のように無機的で、それは彼女の人工的な性と、そこから生れる美しさにふさわしい。だからその目の持ち主は、より完成度の高いキッチンを信じるのだ。私はこの作品を読みながら何度となくボードリヤールの主著『象徴交換と死』を想起した。

同じ家に棲むようになって、桜井みかげは自分と田辺雄一の同質性に気づく。ここでは、同質性の発見ないしは同質性への幻想が恋愛につながっていた時代と、むしろ二人の距離を意識してしまう世代との差が顔をのぞかせている。彼等はいずれも情緒的な人間関係を結ぶための接続端子を持っていないのだ。徐々に発酵する恋愛感情は、コンセントがないためにプッツンと切れ、電流は虚しく自己の体内で自閉的な回路を巡るのだ。田辺雄一の母親が殺されてしまうのも、こうした文脈のなかに置けば、彼等の関係を象徴する事件だと頷けるのである。作品の終り近くに、主人公と田辺雄一の母親がキッチンで真夜中のパーティをひらくシーンがある。本当の主人公である無機質のキッチンが輝くのは、いつも真夜中なのだ。朝、子供達を学校へ送り出すために、あるいは帰ってくる家族のために主婦が忙しく立働くキッチンはこの作品の主人公にはなり得ないのだ。明るさは現代に生きる孤児の桜井みかげにとって、いつも夜にだけ訪れるのである。
キッチン / 吉本 ばなな
キッチン
  • 著者:吉本 ばなな
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(200ページ)
  • 発売日:1998-06-23
  • ISBN-10:4041800080
  • ISBN-13:978-4041800089
内容紹介:
唯一の肉親であった祖母を亡くし、祖母と仲の良かった雄一とその母(実は父親)の家に同居することになったみかげ。日々の暮らしの中、何気ない二人の優しさに彼女は孤独な心を和ませていくのだが……。

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初出メディア

産経新聞

産経新聞 1998年10月31日

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