書評
『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活』(求龍堂)
遊び心をなくした世に贈る“伴侶”との祝祭
ステッキは当節、とんとはやらない。介護用の杖(つえ)はおなじみだが、オシャレとしてのステッキが姿を消して久しいのだ。そんな時代にあって、つねづねステッキをいつくしみ、海外に及んで買い求め、あまつさえステッキをめぐる本をまとめた人がいる。よほどの変わり者、あるいはヘソ曲がりといわなくてはならない。しかし単なる変わり者なら、写真で披露されているような、これほど趣味ゆたかな造形性に富み、物語性をそなえた名品を蒐(あつ)めたりはしないだろう。ただのヘソ曲がりなら、ステッキ文化史にわたって、こんなにたのしいウンチクを傾けるなんてできやしない。そもそも数をふやそうとして探し求めたのではなく、もともとこの人には生来、「ステッキ性」といったものがそなわっていて、それがかくもみごとなコレクションをなさしめたかのようなのだ。
「ぼくはぼくたちの生活から“失われたステッキ”について語ろうとする。遊びでのステッキを持つことすらできない今日の生活の余裕のなさ、精神的貧しさに気づくため、ステッキを取り上げようとする」
幼いころチャンバラごっこをしたことのある人は、棒きれを握った瞬間の奇妙な感覚を覚えているだろう。強い味方を得たようで、急に自信がついた感じ。棒一つで深い安心感につつまれる。もしかするとそれは遠い人類の記憶につながっているのかもしれない。地上にあらわれた人間は外敵から身を守るために、まずまっ先に武器、つまりは手近な棒を手に取ったにちがいない。とするとステッキは人間のもっとも古い伴侶というべきことになる。
伴侶が文化史のなかで、さまざまに進化した。座頭市がもっていたような仕込み杖は世界各国にある。サイコロを封じ込めたステッキ、握りの部分にフラスコ状のグラスを仕込んだもの、コンパス(磁石)あるいは双眼鏡つき。イギリスで釣ざおが仕込まれたのを見つけて感動していたところ、日本で同じたぐいに出くわした。
「いるんですねぇ、こういう道楽者が」
自分の道楽ぶりを棚にあげて同輩をいとしむところがほほえましい。かつては『ステッキ術』といった本まで出るほど隆盛をきわめたステッキ文化が、なぜすたれてしまったのか。
「ステッキを突いて歩く」というように、ステッキはもって歩く以上に「突く」という用途がある。これは多く歩行を促すよりも歩行をとどめる用向きに使われる。手に棒をもつと、のべつ立ちどまり、足元の何かをつついてみたり、頭上の何かをたたいてみたりしたくなるものだ。五体のうち、おそろしく長い手をもった怪人になれる。こういった気ままな変身は、規格ずくめの現代に好まれないことはたしかである。
「ステッキに『左手用』と『右手用』があるのはご存知でしょうか」
あちこち寄り道しながらのステッキ談義は、歯切れがよくて、ユーモアをもち、ときに落ちがまじえてある。タイトルにわざわざ「おかしなおかしな」と断ってあるのは、ステッキの先生がテレ屋だからだ。恋人のような品を、つい人に贈呈して、あとで行く末に心いためたりする。「ステッキ10得」のなかでは「ステッキは持ち主の心身を癒やす心優しい友」というのだが、このステッキ本自体がすでにそうである。これは経済と効率だけに明け暮れする世相にそっと差し出された突き棒だ。ペンによるステッキの祝祭である。さっそく自分も心あたりを探して、気のいい「友」を見つけたくなる。
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