書評

『ヴァインランド』(新潮社)

  • 2020/06/03
ヴァインランド / トマス ピンチョン
ヴァインランド
  • 著者:トマス ピンチョン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(621ページ)
  • 発売日:2011-10-01
  • ISBN-10:4105372106
  • ISBN-13:978-4105372101
内容紹介:
1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか-。だが、日常は… もっと読む
1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか-。だが、日常は過去の亡霊の登場で一変する。昔なじみの麻薬捜査官が示唆したあの闇の男、異様なまでの権能を誇り、かつて妻を、母を、奪い去ったあの男の、再びの蠢動。失われた母を求める少女の、封印された"時"をめぐる旅が始まった。超ポップなのに、この破壊力。作品の真価を示す改訳決定版。

「時」を取り戻す裏返しの歴史

十一世紀、スカンディナヴィア半島のヴァイキングたちは、北アメリカ大陸の東岸、のちのニューイングランド付近をしばしば訪れ、そこを葡萄の豊かな地「ヴィンランド」と呼んだという。ピンチョンはその土地を、カリフォルニア州北部の架空の地方「ヴァインランド」として蘇らせ、小説の舞台とした。鏡に映したように、東海岸のアメリカ合衆国建国の地を、西海岸に置き換えたのである。この作品は、そういった逆転の意志に貫かれて書かれた、裏返しの歴史だといえる。

物語は一九八四年、ヒッピー崩れのゾイドと彼の十四歳の娘プレーリィが、陰謀によって警察に狙われるところから始まる。プレーリィは父と別れて逃亡しつつ、その陰謀の原因である母親のフレネシを捜していくのだが、もちろんピンチョンの小説であるから、話は脱線に脱線を重ねて様々な人物の細部に及んでいく。

その中で描き出されるのは、アメリカの、忘れられた抵抗の系譜である。中心となるのは、フレネシが学生だった六〇年代のヴェトナム反戦運動と学園闘争だ。反権力闘争に身を投じた者の家系に生まれたフレネシは、DL(ダリル・ルイーズ)らの仲間とともに、学生運動をドキュメンタリー映画に撮る活動家だったが、一方では弾圧の張本人である検事ブロック・ヴォンドの魅力に逆らえず、密告に手を染めてゆく。ヴォンドの命を受けた彼女の工作により活動家の間に内ゲバが起こって、革命の時代が終わると、彼女は姿をくらまし、普通の生活に逃げようとしてゾイドと結婚、プレーリィを産む。だが、ヴォンドはしつこく現れ、ゾイドからフレネシを引き剥がす。司法組織の情報屋として政府の保護下に置かれた彼女は、別の情報屋と再婚する。それから十五年後、ゾイド父娘の家庭壊撃により、ヴォンドの新たな弾圧が始まったわけである。プレーリィは南へと逃げる過程でDLやその恋人フミモタ・タケシらと出逢い、母の過去を知っていく。やがてフレネシの居所をつかんだ三人は、再び北へ。そこは、フレネシの一族が毎夏に集う精神的ルーツの地、ヴァインランドであった……。

他にもフレネシの両親、さらにその両親らの歴史にまでさかのぼり、第二次大戦前の組合闘争、大戦後の赤狩りなどが、六〇年代と重ね合わせられるように叙述される。こうして、常に表側の歴史からは抹消されてきた彼ら一族の「建国の精神」が、反復する波として縦承されていることを、裏返ったアメリカ史としてピンチョンは示す。その精神とはすなわち、現在のアメリカを転覆しうる意志であるといえる。

だが、そういった精神は一方的に力に敗北してきたのではない。カの存在は曖昧である。フレネシもその母のサーシャも、制服が象徴する権力に性的興奮を感じ、屈してしまう。ヴォンドは挫折した活動家の心に潜む「秩序への渇望」を見抜く。そのヴォンドもさらに別の権力に制御されている。そして、その力を隠すのが映像である。

ピンチョンは、この作品の舞台であるポストモダンとレーガン大統額の八〇年代を、映像に覆われ「時」の止まった社会として描いている。ヴェトナム戦争などで命を落とし死にきれずにさまよっているゾンビ「シンデルロ」たちは、晴らされない恨みだけを増幅させつつ、日がなテレビに浸かっている(その一人が、フレネシの工作で殺された教授ウィード)。ゾイドにつきまとう、うだつの上がらない麻薬捜査官ヘクタは、テレビ中毒患者として更生施設に収容される。フレネシの子供たちの原風景は、常にライトブルーのブラウン管の光に照らされている。テレビドラマやロックのタイトルを連発し続ける文体自体が、ジャンキーで軽薄な字面となり、ぺ−ジを覆い尽くそうとする。

また、登場人物も鏡像という対の像によって成り立っている。権力に弱い活動家フレネシは蛍光ブルーの目を、彼女と同性愛すれすれの仲で最後まで闘う武道家のDLはくすんだ青の目を持ち、DLはフレネシに化けて、その愛人ヴォンドの暗殺を謀る。タケシは、ヴォンドとそっくりの容貌とつるつるの顔の皮を持つがゆえ、ヴォンドの身代わりを務めさせられ、DLに殺されかけ(忍法で死のツボを刺激され、一年後に死ぬ運命を宣告される)、その縁で恋人となる。

こうして小説全体が、「映った像」によって埋め尽くされようとする。その光景は究極的に、人間の生(イチ)と死(ゼロ)の連なりがより高次の存在によって読みとられるデータを表す(「人はみな神のコンピュータの1ビット」)という、記号の戯れによって成る世界のイメージとして、フレネシに幻視される。

だが像に覆い隠された彼らは、本当はイチともゼロともつかない中途半端な存在である。タケシは「もう死んでいる」状態で生きており、シンデルロは「死んでいる、みたいで、ちょっと違う」。フレネシは夢の中で父に「死んだ仲間を大事にしないと、彼らに面倒を見てもらうことになるぞ」と言われ、「みんな死んでいることに忙しくて人のことなど構っちゃいられない」と答える。仮死の記号的状態の裏には、物理的な生の底流が流れているのだ。ヴァインランドとはそんな者たちを収容する黄泉の国であると同時に、フレネシの一族が持ち続ける反権力の精神を蘇らせる地でもある。

彼らの「生」は、ヴァインランドに一同が集結する最後の場面ではっきり姿を見せる。フレネシがその地に赴くのは、更生施設から脱走したヘクタの招きで映画を撮るためなのだが、若き日の彼女の希望だった映画は、ヴォンド的重力から自由な銀色の光として、テレピの青い光と区別されている。ホームタウンに戻ってきたプレーリィが母の一族のサマー・キャンプに参加する場面は、それまでとはうって変わったみずみずしい描写で描かれる。テレビ映像の言説を免れたその記述からは、裏返った歴史であるヴァインランドの「建国精神」の新たな発露が、予感される。そして、ヴァインランドに乗り込んだヴォンドは、自身が映像でしかなかったかのようにあっけなく死に、シンデルロたちは活力を取り戻す。

ピンチョンは、自らを力にゆだねてしまう精神の動きと矛盾せずに、それに抗う精神を更新できるがゆえ、転向とは無縁でいられる作家なのだ。

なお、翻訳に多少の違和感が残った。メキシコ系の刑事ヘクタの話す言葉が、大阪弁で訳される理由は何か? 『細雪』の会話がスペイン語靴りの英語で訳されたら、異様だろう。また翻訳者は、「小説翻訳にあるまじき、大分私的な「訳者ノート」を載せさせてもらった」と断っているが、いくつか〈読み〉を誘導するような註もあって、少々鬱陶しかった。

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集版】
ヴァインランド / トマス・ピンチョン
ヴァインランド
  • 著者:トマス・ピンチョン
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(502ページ)
  • 発売日:2009-12-11
  • ISBN-10:430970963X
  • ISBN-13:978-4309709635
内容紹介:
1984年、ある夏の朝。北カリフォルニアの山中で14歳の娘とふたり、ジャンクにクレイジーに暮らすヒッピーおやじゾイドの目覚めから物語は始まる。ゾイドを執拗に追う麻薬取締官、娘を狙う連邦政府、その権力の魔の手から逃れながら、母探しの旅に出る娘。そして物語は60年代へ、ラディカル映画集団の… もっと読む
1984年、ある夏の朝。北カリフォルニアの山中で14歳の娘とふたり、ジャンクにクレイジーに暮らすヒッピーおやじゾイドの目覚めから物語は始まる。ゾイドを執拗に追う麻薬取締官、娘を狙う連邦政府、その権力の魔の手から逃れながら、母探しの旅に出る娘。そして物語は60年代へ、ラディカル映画集団の一員だった母の記録映像を見る娘の眼差しと共に、バークリィでのデモ隊と機動隊の衝突現場へズーム・インする。闘争の渦中で母を救出するDLは、マフィアのドンに雇われ殺人忍法を操る「くノ一」。その女忍者とコンビを組むカルマ調整師のタケシ、彼らにカルマを調整してもらうヴェトナム戦争の死者のゾンビ「シンデルロ」…次々と出現する登場人物を巻き込んで、仕掛けに満ちたピンチョン・ワールドは時のうねりの中を突き進む-全米図書賞受賞の大作『重力の虹』以来17年の沈黙を破って発表された本書は、ギャグ満載のポップな装いの下に、輝けるアメリカを覆う呪われたアメリカ、官憲国家の狂気を、繊細に重厚に、ときにセンチメンタルに描き出す。名訳をさらに磨きあげ、注釈も全面改訂。

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ヴァインランド / トマス ピンチョン
ヴァインランド
  • 著者:トマス ピンチョン
  • 翻訳:佐藤 良明
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(621ページ)
  • 発売日:2011-10-01
  • ISBN-10:4105372106
  • ISBN-13:978-4105372101
内容紹介:
1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか-。だが、日常は… もっと読む
1984年、夏。別れた妻をいまだ忘れられぬゾイド・ホイーラーは、今年もヴァインランドの町で生活保護目当てに窓ガラスへと突撃する。金もなく、身動きもならず、たゆたうだけの日々。娘のプレーリーはすでに14歳、60年代のあの熱く激しい季節から、どれほど遠くまで来てしまったことか-。だが、日常は過去の亡霊の登場で一変する。昔なじみの麻薬捜査官が示唆したあの闇の男、異様なまでの権能を誇り、かつて妻を、母を、奪い去ったあの男の、再びの蠢動。失われた母を求める少女の、封印された"時"をめぐる旅が始まった。超ポップなのに、この破壊力。作品の真価を示す改訳決定版。

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新潮 1999年3月号

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