書評
『背負い水』(文藝春秋)
思いきりブラックな嘘を
「嘘に色があるならば、薔薇色の嘘をつきたいと思う」とは、なかなかしゃれた前口上だ。と同時に、読者に対する挑戦もしくは目くばせでもある。小説という嘘の始まり始まり、というわけだ。表題作「背負い水」の主人公は、まるで落語の「湯屋番」の若旦那か「野ざらし」の釣りざおで川の水をかき回してしまうお調子者のように、次々と妄想にふけっては、その妄想を現実として生きてしまう。裏返していえば、それは現実というものがいかにつまらないものであり、また脆(もろ)いものであるかを暴くことにもなる。主人公は売れないイラストレーターで、とうの立ちかけた独身女性。妻に逃げられた画家の父親と同居していたが、ついに恋人ができ、家を出る。この彼女のドタバタの生活が、コミカルに描かれる。恋人と同棲しながらオジサン編集者や忘年会で知り合った新進画家と付き合ってもいるちゃっかりぶりの彼女だが、いざ恋人に女性の影がちらつきだすと、たちまちうろたえるというだらしなさ。相手の言葉をことごとく嘘ではないかと疑うのだ。
このように、作者の小説の主人公たちは、嘘やギャグの煙幕を張ってはいるものの、実は内心きわめて孤独で不安なのだ。むしろ自分が孤独と不安を意識しないように、嘘とギャグの中毒になっているふしさえ見られる。というのも、ギャグの多くは、登場人物の言葉を借りれば、それこそ「地べたに穴掘って頭だけ埋めちゃいたいような」代物だからである。はっきり言って、思わず唸(うな)るようなものはない。
本書にはその他三つの短編が収録されている。「喰えない話」は、大学で語学の非常勤講師をしている独身女性が、ダイエットを試みるがたちまち挫折する話。女友達である常勤講師とのかけあいが面白い。いや、これは評者も大学に勤める身だからかもしれない。
ただ、この作品には最後にオチがあり、物語全体が主人公の書いたフィクションであるという仕組みになっている。このオチで思い出したのが、ペルーの作家エチェニケだ。彼の短編によく似た構造を持つものがあり、しかも主人公はシャレを連発する妄想家なのである。もうひとつおまけに、作者はオギノ氏同様フランス留学の経験者。ことによると二人は出会ったことがあって、それでエトセトラなどと考え出して、はっと我に返る。これでは、自分がオギノ・ワールドの登場人物ではないか。
「四コマ笑劇(ファルス)『百五十円×2』」は、お嫁に行けない独身OLの日記といったところ。それにしても、どうして主人公たちはこうも結婚願望が強くて、食べ物と体重にこだわるのだろう。答えは孤独で不安だから。そう言い切ってしまっては身もふたもないが、指輪を自分で買って婚約をデッチ上げるOLの話のように、笑えそうで笑えない話が多い。
なかでは最後の「サブミッション」が、私小説めいたところがないだけ、さばさばしている。人が一生につける嘘の量が決まっているのなら、オギノさん、今度は思いきりブラックな嘘をついてみてくれませんか。
初出メディア

月刊Asahi(終刊) 1991年12月号
ALL REVIEWSをフォローする



































