自著解説

『モノのはじまりを知る事典』(吉川弘文館)

  • 2020/08/04
モノのはじまりを知る事典 / 木村 茂光,安田 常雄,白川部 達夫,宮瀧 交二
モノのはじまりを知る事典
  • 著者:木村 茂光,安田 常雄,白川部 達夫,宮瀧 交二
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(272ページ)
  • 発売日:2019-12-15
  • ISBN-10:4642083685
  • ISBN-13:978-4642083683
内容紹介:
私たちの生活に身近なモノの誕生と変化、名前の由来、発明者などを通史的に解説。理解を助ける図版や索引を収め、調べ学習にも最適。

「貨幣」がなくなる? -「モノ」のはじまりと変化を考える-

IT関連技術の進展によって私たちの生活環境は急激に変化している。私たち六・七〇代はその変化に追いつくのに汲々としているといっても過言ではない。二年半ほど前、その変化を実体験することがあったので、個人的な体験で恐縮だがその紹介から始めたい。

二〇一七年の夏の終わりに、上海・復旦(ふくたん)大学の日本中世史研究者銭静怡(センセイイ)さんを頼って、夫婦で上海・杭州・寧波の見学旅行にでかけた。彼女に経済的な負担をかけてはいけないと思い、大学内の銀行でそれなりの額を「元」に換金した。

夕方、彼女夫妻とともに中華料理店に夕食にでかけた。この時は「せっかく日本から来たのだから」という言葉に甘えて、なんの疑問もなく彼女たちに支払ってもらった。翌日、上海市内観光にでかけて、見学後昼食を摂ることになったが、事件はここから起きた。「昼食代は私たちが払います」といってレジで支払おうとしたが、現金(「元」)では支払えないというのである。クレジットカードも出したが日本発行のカードは使えず、結局、ここでも彼女たちに払ってもらった。では、彼女たちはどのようにして支払ったのか。それは、いま日本でも大「奨励」中のスマホアプリを利用した決済であった。

次の日に入った料理店はもっとすごくて、注文もメニューにあるQRコードをスマホアプリで読み込んで注文しなければならず、当然支払いもスマホアプリでなければならなかった。このような状況は飲食店だけではなく、タクシーも鉄道もホテルもみなそうであった。

ということで、中国のスマホアプリを取得していない私たちは、上海では現金をほとんど使えず、支払いはすべて彼女たちに任せざるを得なかった。私たちは換金した「元」を鞄に入れたまま、杭州・寧波を旅行しなければならなかった。そして、唯一「元」を使用できたのは(少々大げさだが)、旅行の最終日に旅行中にかかった費用(交通費・ホテル代・食事代など)を折半して彼女たちに支払ったときだけであった。

このような衝撃的な経験をしたわずか一年後に、日本でも政府が率先してキャッシュレスを奨励する事態になるとは想像だにしなかった。さらに、スマホアプリ決済だけでなく、仮想通貨などデジタル通貨も使用され始めている。もしかしたら、私たちが長い間生活の中で普通に使ってきた「貨幣」はなくなってしまうのであろうか。それだけではなく、数年後、十数年後には「お金」は使うが「モノ」としての「貨幣」を見たことがない、使ったことがない世代が誕生しているかも知れない。

この個人的な経験からだけでも、いまの私たちは、日常生活を取り巻くさまざまな「モノ」が大きく変化する時代に生きていることが理解できよう。「貨幣」の変化だけでなく、実際に運動せずに映像画面上で競う「スポーツ競技」=eスポーツが生まれるなど、パソコン、スマホの端末を利用したバーチャルな映像環境の発展による変化も凄まじい。またAIの世界の進歩と拡大には追いつくことさえできないというのが偽らざる心境である。

しかし、このような日常生活の変化の影響を全面的に受けているのは、私たちの世代ではなく生徒や学生など若い世代であることはいうまでもない。彼らを取り巻く生活環境の急激な変化は、ともすると「モノ」の本来の形態や意味を見失いかねない状況を生み出し、またそれらの来歴や意味を問い直す機会さえ奪っているようにも感じる。

このような状況のなかで、二〇二二年度から「高等学校歴史」の新科目として「歴史総合」が導入されることになり、その最初の「歴史の扉」の目標の一つが

近現代の歴史の大きな変化と私たちの生活や身近な地域などに見られる諸事象が、日本や日本周辺の地域及び世界の歴史とつながっていることを理解する。

と設定されていることは注目される。近現代史の諸事象が「私たちの生活や身近な地域など」と「つなが」っていることを学ぶことに焦点があてられており、身近な生活との関わりの中で歴史を学ぶという積極的な目的が設定されているからである。

そして、取り上げる具体的な内容として「生活における時間規律」「身の回りの菓子や料理」「地域の産業や交通」「地域の祭や行事」「就職や受験」「新聞やテレビ」「遊びやスポーツ」が挙げられている。まさに「生徒諸君の身の回りの諸事象」そのものである。

さらにその取り上げ方も具体的に示されている。例えば「生活における時間規律」では「現代の社会では時間厳守を重視するが、それはなぜか、いつ頃からそうなったのだろうか」という課題を設定し、「ヨーロッパ諸国における労働慣行の変化、明治期のお雇い外国人の日本人観などに関する資料を取り上げ、近代化と時間規律の重視との関連性、西欧の近代化が日本に及ぼした影響について考察し表現する」ことが求められている。

では、今度の「歴史総合」で上記の「時間規律」のような「身近な諸事象」をその始まりまで遡り、それが周辺地域や世界の歴史とつながっていることを学ぶことが求められている理由はなんであろうか。もちろん、それを通じて今回の「指導要領」改訂の目玉である「思考力・判断力・表現力等」を育成するためであることはいうまでもないが、私は、先に述べたように生徒諸君を取り巻く日常生活で急激な変化が起こっていることも関係していると考える。

この間のIT関連技術などの進展による彼らの生活環境の大きな変化とそのスピードの早さは、彼らが現在の社会の成り立ちやそれを形作ってきた歴史的変化をじっくり捉え直すことを難しくしているように思う。この困難を克服する方法として採用されたのが、改めて「モノ」を中心とした「身近な諸事象」を取り上げ、その始まりと変化そしてその現代社会における意義を、周辺地域や世界の歴史と関連付けて考え、それを通じて歴史的思考力を育てるという方法ではないだろうか。

「歴史総合」の目標が端的に指し示しているように、日常生活が急激に変化しつつある時代だからこそ、私たち自身も改めて身の回りで起きている諸事象をしっかり捉え直すことが重要になっていると考える。いまの私たちの生活を形作っている一つ一つの「モノ」に着目し、その由来と役割、その変化の過程を捉え直すこと、またその「モノ」の誕生と変化が私たちの生活に与えてきた影響について理解することが求められているように思う。

このような変化の激しい日常生活のなかで、私たちを取り巻く「モノ」の始まりと歴史的意味を再確認するための一助になることを願って、昨年末に『モノのはじまりを知る事典』を刊行した。変化する日常生活をもう一度見直す契機として、また教育の現場で「身近な諸事象」の来歴と現状を調べる入り口として活用していただければ幸いである。

[書き手] 木村 茂光(きむら しげみつ・東京学芸大学名誉教授)
モノのはじまりを知る事典 / 木村 茂光,安田 常雄,白川部 達夫,宮瀧 交二
モノのはじまりを知る事典
  • 著者:木村 茂光,安田 常雄,白川部 達夫,宮瀧 交二
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(272ページ)
  • 発売日:2019-12-15
  • ISBN-10:4642083685
  • ISBN-13:978-4642083683
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本郷 2020年3月第146号

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